すでに道を一本間違えていることに気がついていましたが、(旧)県道まで戻って入り直すには“深入り”し過ぎています。農道の端に恰好の駐車スペースを見つけたこともあって、“棒に当たる”のも悪くないと、ここから歩いて戻ることにしました。強い風で腿にまとわりつくジーンズの不快感はありませんが、徐々に増す8月の日射しに、帽子を持ってこなかったことを後悔しました。
川向こうは山から派生してきた尾根で、歩みに連れて少しづつ低くなるのが分かります。その裾に目標とする鳥居が見えていますが、「あの角から」も、その正面に立つと民家の木戸で、参道に続く道がありません。
炎天下の畑に手を動かし続けるおばあさんを見つけました。遠慮がちに神社への道を問うと、「(自宅の)庭を通って行け」と指を差します。好意に甘えて、自宅から畑の往来に使う私設の橋を渡ると、左は歓喜院という本来の道に出ました。まさに、(この場合は)“渡りに橋”でした。
鳥居の下から、時折灰のようなものが舞い上がります。石段を注視すると、何と、大量の干からびたアリの卵です。甲虫やヤスデもその中に埋もれていますから、殺虫剤で駆除したのでしょう。何かイヤなものを感じましたが、…息を止め大きく跨ぎました。
拝殿前にある灯籠は近世の奉納なのか、優美・繊細で仕上げも丁寧です。いきなり現れた男に「もっと骨太の方が」と言われても灯籠は当惑するばかりと思いますが、竿の彫りを確認したら「安政五年(1858)」でした。
実は、今日ここに来た理由は、
という一文にあります。ここに出る「柏原」がどこにあるのかと調べた結果が「茅野市北山柏原」という地籍で、そこにある神社が「柏原神社」という流れでした。
この「諏訪大社縁(ゆかり)」に最初に引っかかったのがその灯籠で、右に「諏訪大明神」左には「日本第一大軍神」とありました。
私は諏訪大社の分社を多く巡拝していますが、この「軍神」を目にするのは初めてでした。結局は、拝殿の格子から赤い「諏訪梶」の定紋幕を見ましたが、諏訪大社と関連がある事物はこの二つだけでした。
初めは、拝殿が本殿の覆屋を兼ねている思っていました。ところが、横に廻り込むと、裏山を背負うようにした小さな本殿が見えます。取りあえず一枚撮りましたが、アングルが気に入りません。別の位置から狙おうと思って山側を見上げると、上に続く小道があります。
誘われるようにその先をたどると、拝殿の屋根と同じ高さに平坦地が現れました。その向こうには、「オー、これは!!」という一種異様な光景が…。
3mはあろうかという大石が二つ立ちはだかり、その前には、「人間が作ったものでも、これほどまで自然に同化してしまうんだ」という石祠が並んでいます。当時は単に寄せ集めただけなのでしょうが、今は、その配置さえも絶妙に見え、「うーん」とうなってしまいました。
原始の息吹に包まれた中で何かホッとするのが、その聖域全体を守っているかのような御柱(おんばしら)です。ところが、木札に「天満宮一之御柱」とある文字を見ると、一気に人臭さを感じ、「さて、帰るかな」になってしまいました。
結局、紹介できるような「諏訪大社縁の柏原神社」は見つかりませんでした。今一つ割り切れないものを感じながら、霧ヶ峰・蓼科・白樺湖帰りという県外車の列に加わりました。
江戸時代の旧村である「柏原」区は、地元では知られた財産区です。諏訪市の霧ヶ峰を除くと、前述の観光地は全てこの区が所有しています。これは又聞きですが「(そこから得た)余剰金を区民に還付したら一戸当て80万円になった。税金の申告をしなかったので税務署から…」という話を聞いたことがあります。そういえば、帰りに寄ったお寺「歓喜院」が山里にしては広く立派なのもうなずけました。
その後の調べで、柏原神社の変遷は以下の通りでした。
諏訪神社の詳細は「一、非公認社 諏訪社・祭神 建御名方命・由緒不詳・現社地境内に鎮座の社」と載っていました。他社の記述から、諏訪社の境内に、子之社(ねのしゃ)を始めとした村内の神社を移転したことがわかりました。
これで、柏原神社の主祭神は「八千矛神」ですから、諏訪大社と直接の繋がりがないことになります。そのため、「柏原」は、(諏訪郡)原村の「柏木」に求めるべきとしました。