鶏冠社(けいかんしゃ)の名前は知っていましたが、その前に立つのは今日が初めてでした。
全ての影も朧(おぼろ)となる春の日を浴びて、新しい石祠が鎮座しています。本の写真では朽ちかけた木造の祠でしたから、「いつの間に…」というのが第一印象でした。さっそく身舎(もや)の側面を注視してみますが、一字も彫られていません。
右隣にある家から、主人と思われる男性が出てきました。このタイミングを逃さじと挨拶もそこそこに問うと、頭の中を検索しているような少しの沈黙のあと「4年ぐらい前」と返ってきました。矢継ぎ早の質問にも穏やかな顔で、「祠は諏訪大社が建てた。要石(かなめいし)は昔から無い。大雪で桜の木が折れた。サカキ、ヒイラギ、モミジを植えてある」と話してくれました。
これで、「これが要石か」と一人うなずいていた聖石は、旧祠の台座と知りました。また、新しい祠であるのに屋根の一部が欠け扉も破損したまま置かれている疑問も、雪で落下した枝が原因とわかりました。
鶏冠社の案内板には、「古くは上伊那郡非持(ひじ)・山室郷の奉仕で造営されていたという。別名『柊の宮・楓の宮・つかさの宮・とさかの社・鶏神』」とあります。祠の背後には、男性の話にもあったように、それに合わせてヒイラギ・モミジの幼木が並んでいました。
前宮でも最重要な聖地であったと言われますが、すでに磐座である要石も失われ、現在は“野辺の小祠”という景観になっています。前述の家人が建てたという「御柱」が、せめてもの手向けとなっているように思いました。──実は、長野県教育委員会『諏訪信仰習俗』には「左記神社は諏訪大社の境外社であるが、御柱の曳建は行わない」とあり、鶏冠社が含まれています。本来は不用の(建ててはいけない)御柱ですから、諏訪大社は黙認という形をとっているのでしょう。
茅野市『茅野市史』によると、「要石は明治初年にいずれかに持ち去られた」とありました。庭石として健在ならまだしも、割られて石垣に組み込まれた可能性も…。
諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項』の〔鶏冠社〕では、書き出しが「この社ほど社号の粉乱(ふんらん※混乱)した社はない」で始まっています。「中世の資料に最も多く現れて来るのは楓宮である」として、『和名抄』を取り上げ
と、〔名称〕についての項を結んでいます。「鶏冠樹」を辞書で調べると「鶏のトサカのように紅いことから」とあるので、私は、トサカの切れ込みと色から、こちらの方が語源と思っていました。続いて、
とあります。私が想像するまだ幼年の大祝の歯を、塗り絵のように黒くしてみましたが、何とも格好がつきませんでした。
平成28年の夏になって、祠の背後にあるヒイラギをバックにした鶏冠社を撮ってみました。
しかし、夏木と夏草でゴチャゴチャして、「これが鶏冠社?」という景観になっていました。今にも倒れそうな灯籠が、それに拍車を掛けています。多分私設の灯籠で、諏訪大社では手が出せないと見ました。御柱は、6年目とあって倒れていました。
去年竣工した「前宮水眼広場」に寄ってみました。写真では知っていましたが、その前に立てば、私には受け入れがたい異空間が広がっていました。「水眼川をイメージした公園」が茅野市の基本設計と思いますが、「水車が回る水路と石組み、それを囲む広過ぎる芝生」には、「ゴチャゴチャしていたが、あの眺めが懐かしい」とつぶやくしかありません。
その境界を越えて鶏冠社前に降り立つと、写真の景観になっていました。
公園との親和性が損なわれるのか、境内はこざっぱりと整備され、破損した石祠の代わりに木造の祠がありました。今後の諏訪大社は順次この板宮に替えていくのだろうかと、つい思ってしまいました。