長野県神社庁が包括する「御社宮司」と名が付いた神社の一つが、岡谷市にあります。
現在の住所表示は「岡谷市湖畔」で、神社前の公園も「湖畔公園」です。しかし、岡谷市民ではない私でも、旧村名が旧字(あざな)に替わった「下浜」の方がしっくりします。近くにある公民館も「下浜区民センター」ですから、ここでは「下浜御社宮司神社」と表記しました。
屋根のみという覆屋ですが、上部三方を板で囲ってあるので本殿の全容を拝観することはできません。彫刻は随所に見えますが、横からは下部のみ・正面は斜めから“チョッとだけ”という状態でした。
自宅で写真を拡大して、初めて御扉に「諏訪梶」の彫刻があるのが確認できました。本殿の瑞垣内にある灯籠ですが、拝殿前にある灯籠が一番古い延享五年(1748)と、これも写真でわかりました。
境内に由緒書がなかったので、諏訪史談会『復刻 諏訪史蹟要項 岡谷市(旧平野村)篇』から〔御社宮司神社〕の一部を紹介します。
■ [( )]は、私が加えた読み仮名です。引用文『小社神号記』は「」で括りました。
社名変遷 元は御社宮司社、また南宮・海(はま・浜)南宮と称し神社と唱えることは許されなかった。大正九年御社宮司神社と改称する。
祭神 建御名方命他十四神(十五社)
由緒 小社神号記(武居光年蔵)に
「往古御三狐神とも書り、然れば爰(ここ)に記すことあり、専女(とうめ)神は保食(うけもち)神御同体なり云々、御鎮座伝記に云う、調御倉(つきのみくら)神宇能美多麻(うのみたま)神に座(います)なり、是装(則ち?)伊諾装冊(いざなみ)に柱の尊所生神なり、亦(また)は大宣都比売(おおげつのひめ)神亦保食神と名つけまうす、神祇菅(官?)の社内に座(います)御膳(みけつ)神是なり、亦神服機殿(かんはとりどの)に祝祭三狐神同座神なり、故に亦専女神と名つけまつる云々」
また明治二十年頃の御書上には祭神猿田彦命と記せりという。(小口啓次郎氏談)
祭式・古例 湯立て神事
『諏訪史蹟要項』と一部内容が重複しますが、岡谷市『復刻平野村誌』から転載しました。
両書とも『小社神号記』を引用しているので、同じ「三狐神=専女=保食=稲荷」という表記になります。
享保18(1733) 年に描かれた『諏訪藩主手元絵図』では、御社宮司神社を「三狐神」と書いています。「キツネ」ですから「三狐神(さぐじ)=専女=保食=稲荷」と並び、「御社宮司神社の祭神は稲荷神」ということになります。
一方で、『小社神号記』でも「往古御三狐神とも書(け)り」とありますが、「御三狐神」を「みさぐじ」と読めば「御三孤神→御社宮神」で現在の社名とも一致します。
岡谷市『復刻平野村誌』に、明和8(1771)年の奥書がある「岡谷村明細書 枝郷 小尾口村 間下村 濱村(寫)」が載っています。
どのような文書か不明ですが、『諏訪藩主手元絵図』から、宮社の御社宮神が「三狐神」、堂が「十王堂」と一致します。そうなると、享保から明和の間に三狐神→御社宮神と変わったことになりますが、当て字やその土地の呼称である可能性があります。
『諏訪藩主手元絵図』で、諏訪で言う「ミシャグジ」を拾うと、漢字・カナ・ひらがな・当て字と、それぞれをミックスした表記が見られます。その一つに「狐」が含まれていたばかりに、後世の人が稲荷に結びつけて論考したというのが真相でしょうか。