細野正夫・今井広亀著『中洲村史』に、〔(近世)上社の祀職〕が載っています。
神楽役(大夫)は諏訪神社上社の神事を補助する神官としか見ていなかったのですが、「葛井大夫・坂室大夫」から、三十九所の祭祀と管理を兼任していたことがわかりました。
以下は、足長神社の近くにある荻宮社を参拝したときに、地元の人から聞いた話です。別稿『荻宮大明神』に載せたものですが、その一部に新たな内容を加えて転載しました。あくまで「聞いた話」です。
「これ(災難が続いたの)は何かがある」と思いましたが、本家(親類)の不幸話なので、「何か」の根と葉を掘ることは控えました。この時に初めて知った「まがきたゆう・たゆうくぼ」ですが、この付近を通る「鎌倉道」のルートを調べる中で、「籬太夫・太夫久保」に変換することができました。久保は地形の「窪」でしょう。
四賀村誌編纂委員会『諏訪 四賀村誌』の〔上社大祝の祖・有員親王〕の章に、[御曽儀神社]があります。「御衣着祝(みそぎほうり)」で知られる諏訪神社上社「中興の祖」と称えられる大祝有員(ありかず)縁(ゆかり)の御曽儀神社です。
足長神社がある山裾に、山の中へ分け入っていくような一車線幅の道があります。右側の民家共々、窪地の縁(へり)といった場所です。その入口にある半分埋もれた石仏や石祠を見てから、その先に踏み入りました。すぐに家と畑は消え、道以外は緑に覆われました。
「くぼ・窪」と呼ばれるように、狭いながらも小尾根に挟まれた緩斜面の平地が上に延びています。この写真では、枝葉の間からわずかに見えるのが諏訪市街です。葉が落ちた冬には、諏訪大社が見えるかもしれません。
左方に、足長神社の裏へ続こうかという小道があります。「少しだけ」と登ってみると、「こんな所に!?」という墓地が現れ、その中央部には鳥居と石祠がありました。
これが「足長神社の裏にある」という籬太夫・増沢家のミシャグジ社と直感しました。
祠の右側は、山裾に沿って墓石が並んでいます。墓地の写真をネット上に載せるのは抵抗がありますが、由緒ある籬太夫のお墓です。離れた場所から撮ったものにしました。
古い墓石には、神式の「○○神霊」が刻まれていますが、若干の疑問を捨てきれずにいました。しかし、明治44年の石塔に「諏訪上社籬大夫」を読んで、ここが紛れもない籬大夫の墓地と確定しました。疑問の元となっていたのは、仏式そのものの「増沢家之墓・霊前」と彫られた黒光りする石塔です。しかし、側面を改めると「(本名)命神霊」とあって納得しました。
最終的に久保(窪)の最上部まで行ってみました。突き当たりはかなり広い平地になっていますが、資材倉庫があるだけでした。周囲の山は地肌を大きく見せていますから、広範囲に土砂等を採掘した跡のようです。最奥の小山の向こうは、位置的に「足長丘公園」と思われました。
太夫久保が、一面の畑地になっています。余りの変わりように調べてみると、あの時から11年後の再訪になっていました。この写真ではわからないので、諏訪大社上社の場所を示してみました。
鳥居に、「増澤稲荷社」と読めます。旧諏訪神社上社に関わる神職の家系なのでミシャグジとばかり思っていましたが、お稲荷さんでした。とっさに「それはまずいんじゃない?」と思いましたが、大祝邸にも稲荷社があるので…。
御柱年に建てたと思われる鳥居が(建て替えではなく)参道に沿って増設という形になっていますから、素木であっても稲荷社と言うことでしょう。