各種の文献や古絵図に「真弓・檀」が見られます。定説は「流鏑馬社前」ですが、私説を含めて幾つか紹介します。
諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 諏訪市豊田篇』に載っている、西沢明氏記とある「真弓たたえ」の話です。原文を転載したので読みにくい部分があります。
また、「山姥塚」の項では「百米下方に真弓たたえ木のあった祝神があり、この古塚と何か縁由があるらしい。昭和三十二年崩壊してしまう」とありました。以下は、その「現地レポート」です。
古墳「山姥塚」から約30m下ると、右に古びた木造の鳥居と玉垣がありました。これだ、と正面に廻ると祠が3棟並んでいます。中央が石で左右が木造です。『諏訪史蹟要項』の「祠2棟」と「50m及び100m」が“現実”と計算が合いません。再び山姥塚に戻りました。
向かいの庭先に男性の姿が見え隠れしています。早速「下にある神社ですが」と声を掛けると、わざわざその前まで同行してくれ“現説”までしてくれました。「右が八幡社で左が稲荷社」と確認できましたが、中央の石祠は「わからない」と言います。消滅した木祠の跡に石祠を据えた、とすれば「西沢氏の話」とつじつまが合いますが…。
また、「真弓の木があったと聞いている」との話から、一つの説として、この辺りに「真弓湛木」があったとしました。
写真は、前出の祠三棟を横から広範囲に撮って“この辺り”としたものです。
前出の『諏訪史蹟要項』に並記された「南」真志野説ですが、よく知られているためか具体的なことは書いてありません。代わりに、流鏑馬社の境内にある案内板から一部を転載しました。
代わって、江戸時代に書かれた『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から、〔一、真志野村〕を転載しました。
「右社」は習焼神社のことなので、「習焼神社の脇に真弓湛木があった」と書いています。ついでなので、習焼神社の神主が源太夫・巫女が注連高(しめたか)、真弓田はかつての湛え神事を賄うための免田と解説を入れました。
明治33年発行の渡辺市太郎編『信濃宝鑑』に〔習焼神社之景〕があり、真弓塚が描かれています。
本文には「本社艮(うしとら※東北)の方に小地あり、真弓塚と称し真弓湛の旧跡にして諏訪上社七湛の一なり」とあります。これで真弓塚の相対位置がわかりましたが、既に消滅したと思い込んでいたので、あえて探すことはしませんでした。 平成29年4月に、それでもと、畑の手入れをしている女性に「真弓塚は」と問えば、わざわざその場所に案内してくれました。
残念ながら、道中で交わした話の通り、今は分譲地となった盛り土の下でした。それでも、鉄筋が四本刺してある区画「真弓塚」が、せめてもの慰めとなりました。
「もう二年早ければ」と悔やみながら撮りためた写真をチェックすると、2013年1月に撮った一枚に写っていました。
因みに、ストリートビューを2012年版に切り替えると、県道と流鏑馬社前の道から確認できます。
田中積治編著『諏訪の七石七木』は、小冊子ながら諸説を詳しく紹介しています。その中の「諏訪の湛の木に就て(今井黙天稿)」で、「…檀の湛木中洲神宮寺区宮田渡上之宮神殿中部屋付近。一に曰う、湖南真志野…」と二説を挙げています。その一説が、『上社古図』から来ているのは間違いありません。 ここでは、茅野市神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』の一部を用意しました。見ての通り「檀湛」と書いてありますから、これ以上説明することはありません。ただし、『諏訪藩主手元絵図』では同じ場所に「松木湛」とあるので、最下段のリンク「松湛木(松木湛木)跡」もご覧ください。
湛木に限らず木には寿命があります。その度に更新された・一代限りで「跡」となった・同種の木を他所に求めて移動した・違う種類の木に替えた・祠に替えたなどの変遷も考えられますから、候補地が幾つあっても不思議ではありません。