諏訪満隣(みつちか)公の廟所を正面から撮ったものです。右の「東洋精機」や高遠に向かう国道の橋脚が目障りですが、「現在の景観がわかる」として、あえてコンクリートの構造物も入れてみました。これは後からわかったのですが、橋脚の下(向こう)にある墓地は「安国寺墓地」で、この附近に安国寺があったと伝えられています。さらに、廟所の背後の山に「干沢城」があったことも知りました。
実は、前々からこの墓所が気になっていましたが、「諏訪大社と諏訪神社」には余り縁が無さそうと放置してきました。その後、諏訪満隣はこのサイトでも取り上げた諏訪頼忠の父と知り、帽子を持ってこなかったことを後悔する日射しに焼かれながら参拝してきました。
用水路を渡って境内地に入るという状況なので、夏草の根元がコケで覆われているのがわかります。
風通しが良いので湿気は余り感じませんが、足先に、まだ小さいカエルが逃げ道を求めて飛び跳ねます。“今年度の整備”はまだのようで、一面ボーボーという草を踏んで覆屋の前に立ちました。
中央が満隣公の墓碑です。始めの一字が読めないので「省略」という手を使いましたが、安国寺にある位牌から「中興安国寺殿竺渓中派大庵主覚霊」としました。
左の塔に「天正十年壬午年」とあるので、「これは古い」と色めき立ちました。最下部を除き風化の痕跡がまったくない疑問も覆屋があったためとしましたが、木陰で頭が冷やされたのか「これは没年」と納得しました。案内板にある嘉永5年の修築時に建立した「妻」の供養塔でした。右は、「大正寺殿一鶚普慶大禅定門神儀」とある満隣の兄頼高の供養塔です。
境内の左側に沿って茅野市設置の史跡指定の石角柱と案内板があり、四百年忌に建てられた「建立の記」碑と旧高島藩主十四代諏訪忠則謹書とある「至誠護血脈」碑が並んでいました。
「諏訪氏安国寺御廟所」の“ガイド”は、案内板と「建立の記」に詳しいので、私の出番はありません。すべてそちらにお任せしました。
これを読んで、初めて「諏訪頼重自刃以降」の諏訪家の歴史がしっかり頭に入りました。
用水に沿って続く田中の小道を伝って、諏訪満隣公縁(ゆかり)の安国禅寺まで足を延ばしました。この寺は「江戸時代に現在地に移転造立」とある再建された安国禅寺なので、足利時代に全国に建てられた安国寺とは厳密には異なります。しかし、屋根の大棟に諏訪梶が掲げられ、仏殿の正面にも諏訪梶と足利氏の家紋「丸に二つ引両」が並んでいるので、まさしく「諏訪家縁の安国寺」でした。
『ウィキ』の編集者は市井の人(ボランティア)ですから、「編集者の個人的見解に乗せられてしまう」可能性があります。手軽で便利な『ウィキ』ですが、私は「編集者の思い込みがある」のを知ってからは、必ずその“裏”を取ってから引用することにしています。
ネットで「諏訪満隣」を検索したところ、ブログやサイトによって「諏訪満隣の没年」にバラツキがありました。大体二系統に分かれるので、何かあるとにらんで、ウィキの「諏訪満隣」とその長男「頼豊」を参照してみました。「やはり!!」でした(23.7.14現在)。
以下の内容はそれを「コピペ」したものですが、比較しやすいように文体を揃えてあります。“同じ作者による原稿”の可能性が高いのですが、今問題にしているのは「諏訪満隣の没年」なので、その部分だけ注視してください。
没年の部分だけを抜き書きすると、以下のようになります。確認しておきますが「満隣・頼豊」は「親・子」の関係です。
没年が「1545・1582」に分かれますが、これが私の言う「二系統」です。どちらかが間違っているのではなく、“歴史物によくある”文献による違いですが、その出処が併記していないので「確認」ができません。
私の場合は、地元の「茅野市教育委員会」と「四百年忌碑建立の記発起人会」。さらに墓碑に刻まれた「天正十年」の「没年1582年」から入りました。そのため、「諏訪頼豊にある1545年没」に違和感を持ち、以上のような“事”を長々と書く羽目になってしまったということです。
地元の資料として、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』の『諏訪家譜 其一』にある「満隣」を転載しました。「諏訪藩主忠林公が私用に作成した」「頼忠公以前は詳しくない…」とあるように「これだけ」しか書いてありません。
ここでは、「安国寺」ではなく「龍雲寺」になっています。さらに探したら、同書の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に以下のようにありました。
一、安国寺村 (中略)
御位牌は龍雲寺にて給い上しと云う、真志野村 に龍雲寺殿竺渓中派大居士御位牌有り、
「給(たま)い上(あげ)し」が理解できなかったのですが、これを、洪水で流された位牌を「拾い上し」とすれば意味が通ります。原典の誤字か製版時の間違いなのかは不明ですが、「安国寺の仁王が洪水で流されて諏訪湖の対岸で見つかった。拾い上げて千手堂に安置した」という話がありますから、「拾」が正解でしょうか。
同書の「諏訪氏御代々御尊霊位」に、「諏訪湖の満水で流れたものを留めた」とあるので、裏付けができました。
一方、諏訪史談会『諏訪史蹟要項 茅野市宮川篇』には、「安国寺の位牌が古くなり箔等が落ちて汚れたので、新しい位牌に刻んで安置した」とあります。嘉永5年とあるので、廟所の造営時に位牌を一新したことがわかります。何かややこしくなってきましたが、「位牌の法名をあれこれ詮索するのは失礼に当たる」と、「それぞれの寺に、それぞれの寺名を入れた位牌がある」ということにしました。