「物見ヶ岡」と呼ばれるこの場所は、八ヶ岳を正面とする原村の柏木地籍です。「X形の交差点」というより、その変則的な交わり方は辻と言った方が雰囲気が出るでしょうか。御柱こそありませんが、ありとあらゆる柱が立ち並び石仏も多く集まっています。
中央が「物見ヶ岡」の記念碑です。「岡」と言うほどの高まりには見えませんが、人家のない当時はかなり見通しがよかったと思われます。
ふりがなを加えた「物見ヶ岡碑文」を簡略にすると、「御射山に向かう大祝の行列を望見できる重要な場所を後世に残す」となるでしょうか。
石碑を背中にして、八ヶ岳裾野の勾配に沿って下方を眺めます。推測では、右の生け垣の向こうに「大祝の行列がやってくる長峰が見通せる」はずですが、今では…。代わりにその方面に下る道を撮ってみました。
「今でこそ、ケイタイでどこそこを通過中、とリアルタイムで連絡をとれますが」と書いてみましたが、考えてみれば、それもたかだかここ10年のことでした。有線による通信がいかに長く続いたかを改めて考えさせられましたが、…話を戻します。いつ来るとも知れない一行に、迎える側は大いにヤキモキしたと思われます。「おーい、来たぞ」ということで、御射山社に向かって狼煙(のろし)でも上げたのでしょうか。
碑文の末に、高階研一宮司が撰文して守矢真幸禰宜(ねぎ)が謹書したとあります。高階宮司は、当時の官幣大社「諏訪神社」の11代宮司です。守矢禰宜は神長官家の77代当主で、後に宗教法人となった「諏訪大社」の14代宮司になりました。「大祝」に次ぐ、というナンバー2を運命付けられた「神長官」が、戦後という節目に、トップの「宮司」まで上り詰めた心境は如何だったのでしょうか。
村が設置した物見ヶ岡の案内板には、「─この物見ヶ岡に通じる道路に、馬場道・御武器道、の名称が現存しているので─」とあります。原村在住ですが生まれは他所なので全く“初目”です。地元でも柏木生まれでなければ知らないでしょう。
「御武器道かー、変わった名前だな」と思いつつ、駐車場にした旧JA柏木支所に戻りました。その時、今、正に渡らんとする小橋を何気なく見ると、「御武器橋」とあるではありませんか。物見ヶ岡の石碑からわずか50mの出来事でした。