通勤時には必ず習焼神社前の県道を通るのですが、「習焼」を読めずにいました。「しゅうしょう」とか音訓混じりで「しゅうやき」という程度でしたから、気にも留めなかった神社でした。ある日、この神社の前にTV局の中継車が駐まっているのを見て、わざわざ取材に来るのなら、と調べてみました。
その結果、「習焼」を「ならやき(のやき)」と読む、諏訪大社の重要な「独立せる摂末社」であることを知りました。また、「古来は野明や野焼と呼ばれたが、なぜ習焼になったのかの定説はない」とありました。
習焼神社の拝殿大棟の神紋は根が五本の明神梶ですが、本殿の桟唐戸は諏訪梶です。定紋幕は本殿・拝殿とも諏訪梶で、この神社にも神紋の混在がありました。
習焼神社は『野焼神事』『習焼神社例祭』でも紹介しているので、境内の詳細は省きます。
例祭を見学した折に、社殿前に神宝が置かれているのを見ました。宝と言うより流馬社の神事で飾られる播(旗)や弓ですが、その中にある鎌に興味を引かれました。一見はどこにでもある鎌ですが、背に刻みがあります。
形は実用そのものの草刈り鎌ですが、それが返って薙鎌のルーツにも見えてきます。近づいて観察すると、元治元年(1864)を始め多くの文字が刻まれています。
この時は写真に収めただけですが、後に、習焼神社の別称の一つである「野別」から、「風を薙ぐ」鎌として奉納したものと考えました。
別件で習焼神社の駐車場を拝借したので、(ついでに)境内を一回りしました。拝殿の掲額を仰ぐと「大社教菅長 千家尊弘敬書」とあります。始めは、「大社」とあったので諏訪大社の宮司と思いました。しかし、記憶の中には「千家」はなく、再び読み直すと「菅長」です。ここでようやく気が付きました。出雲大社の二大社家の一つ「千家(せんげ)」でした。ただし、この場では、「習焼神社と出雲大社の菅長」との結びつきはわかりません。
自宅で「千家尊弘」をネットで検索しましたが、氏の詳細は得られません。「昭和15年千家尊弘帰幽」から、大正の終わりか昭和の初め頃に氏が揮毫したものとしました。
習焼神社の背後から二つ上にある道が旧道で、写真の野明沢に架かっているのが「下馬橋」です。
石垣下の道脇には大石が二つ並び、右側は「下◯」と読めます。「
」は馬のくずし字なので、「◯」は「橋」となりました。
鳥居の中に黒門を入れたくて、石段からのけぞるように撮ったのがこの写真です。このように、一之鳥居の正面に位置する石橋とその先にある門ですから、習焼神社ゆかりの屋敷跡と思っていました。しかし、案内板がないので、「何だろう」で済ましていました。
その後、『習焼神社周辺マップ』を見ると、対応するのは「源太夫屋敷跡」です。源太夫は、中世の文献に出る「真弓湛(野焼)神主(こうぬし)」に繋がる習焼神社の神主です。
この敷地は日東光学の駐車場ですが、今日は休日で車がなかったので、門を直近で眺めてみました。門の裏には、曰くがありそうな大石やサークル状に置かれた石がありますが、草に埋もれているので「何なのか」はわかりませんでした。