『神長官守矢史料館のしおり』の中に、守矢氏78代当主である守矢早苗さんの〔守矢神長家のお話〕が載っています。拾い読みをしていたら「夏直路廟(なすぐじびょう)」の話がありました。「御柱年に亡くなった祖先は、厳しい物忌令により、この別廟に葬られました」という内容です。短い文ですが、そのお墓の光景は直ぐ頭に浮かびました。今年の4月に、それと知らっずに寄っていたからです。
緑が濃くなった季節に、再び訪れてみました。
よく手入れがされた芝生のように見えましたが、近づくにつれ、まだ生えそろわない夏草とわかりました。
その下にはまだ枯葉が目立ちますが、すでにウラシマソウが鎌首をもたげ、ナルコユリが清楚な花を下げていました。墓域がどこまでなのかわかりませんが、神長官の墓がある熊野堂墓地の墓石密度の高さに比べ、はるかにすっきりしていました。
4基のうち3基から、8月7日・8月17日・7月29日の没年が読みとれました。「墓碑に刻まれた日付が全て夏だった…夏直路と名付けられた意味…」との記述に一致し、終焉の巡り合わせが御柱年になってしまった土中の故人に思いを寄せました。
実は、「物忌令によって厳しく隔離された墓地を写真付きで紹介してもよいのだろうか」と悩みました。しかし、「平成10年の御柱年に母を火葬に付した時にこの前を通った。今年の4月に、目的ではなかった熊野堂(くまんどー)墓地(神長官墓地)と、その時は行き倒れの墓と思いこんだ夏直路廟をたまたま訪れていた」などから、これは「他生の縁」と勝手に解釈して紹介することにしました。
改めて調べると、別の本では「那須口」と書かれています。また、この傾斜では積雪期の人馬による通行は無理なので、「一直線の夏道(冬以外)=夏直路」とする説もありました。
その他「宝暦8年の神長・推寶をもってこの風習は途絶え以後本廟へ埋葬」「別廟に関する記述は皆無なのですでに忘れられていたと思われる」という記述もあります。一時期の厳格な物忌令に忠実に従った、石塔の数から4人と思われる神長官家の人々が未だもって山中で眠り続けていることに、改めて御柱祭の歴史と深さを想いました。
糸萱区誌編纂委員会『糸萱区誌』で、「直路」を見つけました。諏訪では一般的な呼称なのかは不明ですが、八ヶ岳山麓の集落「糸萱」で使われていたことはわかりました。
添付の地図では必ずしも直線ではありません。「最短距離の道」という程度の意味でしょうか。しかし、「夏」と「直路」の関係はわからないままに終わりました。