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織田信長と明智光秀と法華寺

 本能寺の変が勃発したのは、偏執狂としか思えない織田信長の明智光秀に対する仕打ちが下地にあったと言われています。その双方の堪忍袋の緒が切れた場所が諏訪大社本宮の隣にある法華寺であったとは、つい最近まで知りませんでした。因みに、法華寺は諏訪神社上社神宮寺の一坊でした。

織田信長と明智光秀因縁の法華寺
秋里籬島 編『木曾路名所図会 巻四』〔上諏方神宮寺〕(部分)

織田信長と法華寺 諏訪市神宮寺 '03.5.24

 武田家が諏訪明神を篤く信仰していたため、織田信長の嫡男信忠は、諏訪神社上社の全てを焼き払いました。
 その後に、陣所とした法華寺に乗り込んだ織田信長ですが、目と鼻の先に広がる灰じんと化した上社をどのように見たのでしょうか。焼けこげた御柱を見ても、見馴れてきた風景の一つとしか映らなかったのかも知れません。
 二ヶ月後、京都にいた織田信長は本能寺で自害しました。諏訪明神の神罰と、織田信長に否応なく関わさられて殺された人々の、一人では取るに足らない怨念が結束して明智光秀公の背中を押したとしか考えられません。

 上社本宮の四脚門は、徳川家康の寄進によって造営したとあります。26年前、光秀公が辱めを受けた場に同席していた彼は、自分が天下人となった今、どのような思いで四脚門完成の報告を受けたのでしょうか。

明智光秀公と屋敷跡

明智光秀公縁(ゆかり)の祠 茅野市高部 '08.4.10

 高部歴史編纂委員会『続・高部の文化財』には、「石祠に明智の紋があり、正月に金属の御幣が上がる。縁のある人がお参りする。畑の地主藤森◯◯氏の話」とあります。これが大いに気になり落ち着きません。

伝「明智光秀公石祠」 2月5日。「取りあえず写真だけでも」と、雪を押して茅野市の高部へ向かいました。
 西沢川に沿った大祝(おうほうり)の御廟を左に見て少し上ると、道から一段高い土手上に石の祠が見えます。身舎(もや)と基台が代替の自然石なので、チョコン、という感じです。これが、明智光秀公縁の祠でした。

 早速、切妻部にある紋を見ると、やや赤く見えます。朱がわずかに残っているようです。ところが、摩滅と苔で「丸に五弁の何か」としか見えません。苔を取り除いて拓本を採れば「桔梗」と確認できそうですが、桔梗紋は一般にも使われていますから、即「明智光秀公縁の祠」とは言えません。
 それより、屋根は入母屋(いりもや)ですから、諏訪では籃塔(らんとう)と呼ぶ先祖供養塔のように見えてしまいます。御柱がありませんから、所有者は、(神祠ではなく)あくまで墓標と認識していると思われます。

明智光秀公の桔梗紋 4月4日、すっかり雪が消えた伝・明智光秀公の祠へ寄ってみました。真っ先に紋を注視すると、影が出て立体感を増しています。「これなら」と思いましたが、自宅で確認した主観の入らない写真では「これが明智家の紋だ」とすることはできません。
 結局は、「ここまで」としました。これ以上「諏訪の明智光秀」を追っても、この話は〔高部に伝わる伝承〕ですから、その結末は「なーんだ」になりかねません。諏訪に滞在した明智光秀公の落胤が、と想像するのも楽しいのですが…。

明智光秀公陣場屋敷と明地屋敷畑 茅野市塚原 '15.10.7

 茅野市塚原に、模擬合戦(訓練)で明智光秀公が陣を張ったという場所が伝えられています。この戦に勝った明智光秀公ですが、これも(負けた)織田信長の心証を悪くしたそうです。

 それに関連した文献がないかと幕末に書かれた『諏訪郡諸村旧蹟年代記』(以下『年代記』)に目を通すと、「明智光秀公陣場屋敷」があります。

一、塚原村
立石北の方沢に明智光秀公陣場屋敷と云、今其辺裏道通明屋敷跡拾八軒

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 “てにをは”が噛み合わないので何かが抜け落ちているように思えますが、意味は伝わってきます。
 諏訪史談会編『諏訪史蹟要項六 ちの町篇』〔一、明智屋敷〕では「焼屋敷」ですが、

今焼屋敷と云う。天正十年三月織田信長神宮寺区の法華寺に陣したる時演習をなし、明智光秀の陣を張りし所と伝えらる。

として、『年代記』を引用していました。

明智屋敷畑
諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』(部分)

 左図は、1730年代に編纂された『諏訪藩主手元絵図』に載る〔塚原村〕です。ここには「明屋敷畑」があります。
 字が違いますが、諏訪では塚原村以外に「明地」が見られないので、江戸時代では畑となった「明智光秀公陣場屋敷」として当てはめてみました。ここで、後に出る元白岩山を頭に留めておいてください。

明智家老屋敷 それとは別に、塚原村には、大年ノ宮(大年神社)の周辺にも××× で囲んだ「畑」が二ヶ所あり、「明地家老やし記(屋敷)」と書いてあります。
 明智光秀公が屋敷を構えるほど滞在したとは思えませんから、大家を接収して、家臣共々に一時の休息をとったのでしょうか。この場所は茅野駅の近くです。他の武将も、茅野市内に広く分散して滞在場所を構えたのでしょう。

 ここで、「明智光秀公のみが、彼にまつわる地名を残しているのが不思議」という考えが浮かびました。それは、模擬合戦に勝った総大将としてより、諏訪神社上社を焼き払った信長を討った本人ということで、彼が滞在した塚原村で人気が出たと説明できます。今は平成の世ですが、私がここまでに明智光秀に“公”と敬称を付けてきたのは、同じ理由です。

明智光秀公陣場屋敷は字「沢口」

 茅野市教育委員会『茅野市字名地図』の〔塚原〕附近を眺めると、絵図にも載る「森ノ木(もりのき)」の北に「立石」があります。これで「立石の北方の沢に」と読め、具体的な場所が見えてきました。

立石 次は、前出『手元絵図』に書かれた元白岩山です。茅野市在住の方なら(とも言えませんが)、白岩山と来れば同じ塚原にある「白岩山(※山号)惣持院」です。この境内に「白岩観音堂」があるのを頭に置いて上図の『字名地図』をチェックすると、元白岩山の場所に「観音山観音山下」などの字名が重なります。

 竹野美幸・伊藤岩廣・細田貴助著『ちの町史』には「延宝から元禄のころ、白岩に観音があり、守・別当・道心がいたことが分かる。白岩というのは、永明寺山の花崗岩の白い岩のことを言うのであろう」旨を書いていますから、白岩観音堂の旧跡地が“元”白岩山と解釈できます。また、『手元絵図』にある「当村墓処」は白岩観音堂に付随したもので、後に双方とも惣持院に移転したと考えることができます。

沢口 こうなると、立石との間が「沢口」ですから、「に」を「口」の誤記または誤読とし、「立石北の方沢口(を)明智光秀公陣場屋敷と云」が正しいとしてみました。
 ここまで長々と書いてきましたが、結論として、『字名地図』に、『手元絵図』に載る道を着色し、明智光秀公陣場屋敷を「沢口」周辺として赤い破線で囲ってみました。

「焼屋敷」 '23.1.22

 再掲した『年代記』です。文末の「明屋敷跡」に注目しました。

立石北の方沢に明智光秀公陣場屋敷と云、今其辺裏道通明屋敷跡拾八軒

焼屋敷 再び『茅野市字名地図』を開くと、オギノ茅野ショッピングセンター(左図ではセイコーエプソン)の北東側に接する字地に[焼屋敷]と、意味深な[山の城]があります。
 この「焼屋敷」を、前出『諏訪史跡要項』では「明智屋敷」と推定しています。その根拠は書いていませんが、私は「明智屋敷→明屋敷→焼屋敷」の変遷を考えてみました。
 絵図なので正確ではありませんが、『諏訪藩主手元絵図』に「焼屋敷」を加えてみました。

焼屋敷と明智屋敷畑

 しかし、これだけ「明智関連“史跡”」が多いと、「なんだかなー」とため息をついてしまいます。