ブランコなどの遊具がある広場の端から始まる斜面には祠が並び、ここが諏訪である証の「御柱」も建っています。私にはワクワクするような“怪しげ”な場所に映りました。
右端に、無住と思われる民家の敷地に接して玉垣があります。覗き込んでから大きな平石とわかりましたが、案内板やそれに代わる文字を表示したものがまったくありません。磐座のようですが、手前に大石が数個まとめて置かれていますから、私には古墳の蓋石に見えます。これが、女帝塚でした。
収集した資料から幾つかを抜粋して掲載しました。
女帝の別称「女躰」は「女体」ですから、つい良からぬことを連想してしまいます。古文献でも「女躰・にょうたえ」ですから、男としては「にょたい→裸」と妄想が膨らみ、何か猟奇的な伝承を期待してしまいます。
「前方後円墳」の一般的な名称は「二子塚・茶臼塚」が多いのですが、有賀の人々は「腰のくびれ」を連想したのでしょうか。しかし、諏訪では前方後円墳は極めて稀なので、石室の蓋石としても円墳しか考えられません。そのため、どうしても「“にょたい”に関わる何か」の存在が頭から離れません。山の向こうの駒ヶ根市には「女体入口」というバス停があり、全国的にも「女体山・女体神社」があるので、そこまで意識するのは“異常”かもしれません…。
これより、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』からの転載になります。
嘉禎3年(1237)に編纂された文書では「ニウリニウタイ」とあります。「ニウタイ」は女躰とわかりましたが、「ニウリ」が意味不明でした。これについては、『豊田村誌 上巻』の〔有賀氏の活躍〕に、(疑問符付きですが)「女裡(女性の住む家ヵ)」がありました。
一、有賀村
十二木(※十二ノ后)と云う所有、寺(※江音寺)裏也、女躰宮と云、是は往昔大内(だいり)十二后流れ来り居住之所哉、又御尊體を葬奉る所也、石二つ有、二タ子石と云、此所え御頭屋立、産神祭毎年八月三日、…
江戸時代末期の文書ですが、「内裏の十二后が流されてきた」と書いています。
文中に「流れ来り・来ましし」という表現がありますが、なぜ高貴な婦人がここに来たのか不思議に思っていました。その後、「流」は「流罪」であり、延喜式では、諏方(諏訪)が「中流(ちゅうる)」の地であることを知りました。後書では「証拠が見つかったら明らかにしてくれ」と結んでいますが、未だに…。
中央道の側道にある案内板から転載しました。
奥の急坂が、谷の間を有賀峠に向かう県道50号です。中世の頃は、春の廻湛で神使が伊那へ向かった道です。
遺跡の立地がわかるので、反対側から撮ったものも載せました。左奥が諏訪湖で、山並みの中央に少し見えるのが霧ヶ峰・右端が蓼科山です。
余談ですが、左方の白い建物群の辺りが豊田終末処理場です。焼却灰に金の含有量が多いことで知られ、昨年は「灰」が2千万円で売却されました。海外からも取材に来たという「新(珍)諏訪八景」ですが、今年度は放射能の“含有量”が多いことがわかり、6百万円に値切られたそうです。この場合は東電に損害賠償ができるのでしょうか。処理料を負担している身では気になります。