諏訪大社上社本宮の「摂末社遙拝所」に掲げられた神号「御佐久田明神」を見たのがきっかけで、その鎮座地(社殿)を探しました。それは徒労に終わったのですが、「藤島社に御社久神(御佐久田明神)を合祀した」と読める古文献『神長重實藤島社祝詞』にたどり着きました。
『神長重實藤島社祝詞』は、神長官守矢重實(実)が藤島社に奏上した祝詞です。以下に、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある「原文」の前半を、句読点だけを加えて転載しました。次に、読みやすいように一部を漢字に替えたものを並記しました。
ここで「御社久神は御社宮神ではないか」という疑問が湧きましたが、それは余りにも相性が悪いので却下しました。それとは別に、何回も読み直す中で気になった文言を調べてみました。
まずは、小河の郷(※現在の諏訪市豊田・旧小川村)を「再び草創」ですから、何らかの事変で壊滅または衰微した小川村を再建したのが頼房なる人物となります。大祝や神長官は“神事オンリー”ですから、領主諏訪家の系図にその名を求めました。
これで糸口が見つかり事が進展すると思いましたが、「頼房」の名はありません。また、神長官の系図では重実が三人いることがわかり、『祝詞』が書かれた時代が不明とあって面倒なことになりました。
次は「藤島の社…」です。初めは「藤島社に御社久神を合祀した」と読みました。しかし、「再び草創した小川村」を受けると、(例として)諏訪湖の満水(洪水)で流された「藤島社・御社久社」を、復興した小川村に再建したと解釈できます。
「七不思議」の類なので余り参考になりませんが、『信濃國昔姿』から「七嶋之事」を紹介します。諏訪湖の水位低下や埋め立てなどで陸になった正真正銘の島から、上社本宮「清祓池」の築島である宮島までバラエティに富んでいます。
諏訪大社上社がある「諏訪市中洲神宮寺」の「中洲」が現在も大字(あざ)として使われているように、藤島社の藤島が、かつて砂州として存在した島であったことは間違いありません。
藤島社は、かつては中央自動車道を挟んだ字「御座免」にありました。原初からその場所に鎮座していたとしていましたが、これで諏訪湖に近い小川村にあった可能性が出てきました。
何か打開文書(策)がないかと(常時ではありませんが)三日間に掛けて手持ちの文献を眺めていたら、『十三所造営』に目が留まりました。
藤嶋
御寶殿 玉垣 鳥居 小河之役
「造営」は式年造営で、十三所に含まれる摂社の藤島社は6年毎に建て替えが行われます。この式年遷宮を、古文献では「御宮遷(おみやうつし)・宮うつし」と書いています。そのため、「うつし」は移転ではなく「遷宮」と閃きました。こうなると、「洪水などで壊滅状態になった小河郷がようやく復興して、式年造営の役目を果たすことができた」という解釈ができます。
また、罔象女神は「合祀」なので別として、「藤島の社・御社久神のやしろ」とあるので、この時代では両社が並んでいたことが考えられます。
以下は、「諏訪上宮祭礼退転之所、再興令次第」の表書きがある、永禄9年(1566)『諏方上下宮祭祀再興次第(信玄十一軸)』の一枚(軸)です。藤島社の条だけ抜き書きしました。
この文書から、永禄9年の御柱年には、久しぶりに藤島社の式年造営ができたことになります。これで、(頼房草創から)篠原讃岐守が「頼房」ならビンゴとなりますが、…「吉忠」でした。
別件で「千野氏」を調べていたら、頼房の名がありました。高島藩初代家老「千野靭負尉(ゆぎえのじょう)頼房」がその人で、藩命かどうかはわかりませんが、小川村復興に深く関わった立場にあったことが想像できます。
別資料の『諏訪史蹟要項 諏訪市豊田篇』の〔小川村〕に、文出村との別村問題でもめた際、藩に提出した“証拠書類”が載っています。「天保九年の願書には」と題する文書から、冒頭の部分のみを転載しました。
ここに、小川新田の開発は、高島藩の家老が音頭を取ったと書いています。時代は「慶長」ですから、家老は「茅野頼房」となり、小川村の草創に関わった人物と確定できました。また、彼と年代が合う神長官に「守矢重実」がいますから、『祝詞』の内容に符合します。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項 諏訪市豊田篇』の〔小川村〕では、「元和六庚申年の正月、西北の風が諏訪湖の砕氷を吹送ってきて家屋を悉く倒し、人々は四散した」と書いています。1620年は、御柱年(式年造営)です。二人の年齢を考えると当年に仮遷宮したか、復興が成った6年後に『祝詞』が奏上されたことが考えられます。
御作田社は、現在は摂社末社遙拝所に神号が見られるだけです。これは、並立していた社殿を合併させ、藤島社に御作田神を合祀したためと考えられます。