高台にある足長神社の駐車場代わりにした広い路側帯から見下ろすと、家々を囲む大小様々な緑が望めます。その中でも、「これは…」という大樹に何か気になるものを感じます。
“降り立った”という感覚で集落の中に立ちますが、家並みの中では意外と見通しが利きません。勘を頼りに何回か右左折を繰り返し、距離の割りに「ようやく」と言える時間を費やしてその下に立つことができました。(年で)固くなった首の筋肉がキシむほどの大木ですが、それより、そのケヤキを背負った大小二棟の社殿が気になります。しかし、社号標や案内板がないので何の神社か分かりません。「気になるもの」の結果が見い出せないまま戻りました。
車の方向転換に使った公園に「おらほのまちの史跡案内板」がありました。先ほどの神社を現在地から追うと、何と、前から気になっていた「伝・有員親王館跡」で「萩(※荻の誤字)ノ宮」とあります。夏至から一週間ちょっとでまだまだ明るいのですが、頭の中はすでに夕闇が迫っています。写真を撮っておけばよかったと後悔しましたが、引き返す気力はなく次週の楽しみとしました。
なぜか鳥居の真ん前に立つ木に、なぜか子供が書いたと思われる「まゆみの木」の札が掛かっています。さらに、なぜかその前はミョウガ畑になっているので、…参道はありません。「間近で見た真弓の木は斑(ふ)入りの珍しい葉でした」と紹介したいのですが、単なる虫食いでした。全ての葉が被害に遭っているようで、全体としても斑(まだら)模様に見えます。
社殿の扉に、削り出しではなく別途貼り付けた「菊の紋」があります。それも気になりますが、「これが荻宮だ」という確証が得られません。写真を撮ってから、“帰りの駄賃”とケヤキの背後に回ってみました。何と、密生した草から顔を出した、台石ごと傾いた石の祠があります。
「見やすい位置からは見えない」とは変な表現ですが、その隠れた祠を含めた周囲を観察すると、かつて祠まで続いていたであろう玉垣が見つかりました。石組み(石垣)は半ば崩れ木造の垣は下に落ちていました。
裸足のスポーツサンダルでは躊躇してしまうほど、草が一面を覆っています。ヘビを踏みつけるのはいいとしても、反撃されて噛みつかれてはたまりません。草をなぎ倒しながら踏み込みました。
祠の中には、扁平な石が何枚か詰め込まれています。前には石棒らしき断片もあります。石祠の古さと台石の大きさに、「これが荻宮の本殿」と確信しました。
近くのブドウ棚の下に、この手の話を期待できそうな年配の男性がいます。問うと、剪定鋏をベルトのホルダーに戻しながら気安く話を始めてくれました。
メモを基に順不同でまとめたのが、取り留めがないようで情報がぎっしり詰まったこの話です。「今日は大当たりだった」と縄文時代から戦後までの事物が詰まった御曽儀平を離れ、「昼は何を食べようか」という現実に戻りました。
予想外の収穫があったので、自宅に戻ってからも「あれこれ」が浮かんできます。
「拝殿にしたのなら菊の御紋を取らなきゃ」も、「畏れ多くも」が染みこんでいた世代ですから、その象徴を外すことには抵抗があったのでしょう。こんな所にまだ「戦前・戦中・戦後」が残っていることに、ある意味で感心してしまいました。
天皇の威光がまだ残る拝殿に比べ、本殿に当たる祠は全く顧みられず荒れ放題でした。伝承では、この一帯は大祝・有員(ありかず)親王の館跡になっています。明治期に「大祝」を否定した諏訪神社です。さらに、そこに「伝」が付けばそこまで管理ができないのでしょう。せめて地元の人に草刈りを御願いしたいのですが、自宅の草取りも満足にできない自分が言うのも…。
桑原城址へ行ってきました。麓の足長丘公園に車を置いたので、その帰りに荻宮まで足を延ばしてみました。季節の違いだけでしたが、ちょっとした発見がありました。
ここへ来る度に、といっても3回目ですが、祠の屋根にスクラップで押さえた注連縄の残欠があるのは知っていました。「下十三所の荻宮がこれでは情けない」と思っていましたが、今日、それが完品であるのを目にして「なるほど」と納得しました。
それは「荻」の穂を編んだ作った「荻宮のシンボル」でした。その形状から「押さえとしての鉄筋と鉄板でも“あり”かな」としましたが、それより、「荻を以て社宇屋上を葺きたるをもって荻宮の称あり」の故事を今に伝えていることに嬉しくなりました。
御曽儀神社再拝の折、荻宮へ寄ってみました。玉垣が整備されており、すっかり見違えてしまいました。