明治の神社合併で、南大熊から南方・北方御社宮司社合併の申し入れがあったそうです。北大熊の猛反対でその話はなくなりましたが、その結果、現在も南方御社宮司神社と北方御社宮司社が存在することになりました。しかし、合併は国の命令です。調停で、村内の小社・雑社は、鎮座地を無視した「くじ引き」で両社に合併されたそうです。
大熊公民館から山に続く道をたどると、初対面は、余りの急坂ゆえに「アゴの先の南方御社宮司神社」となりました。
古社に不似合いな新しい碑を読むと、何と、「ここに移転した」とあります。本の紹介で初めてここに来ましたから、かつての鎮座地がどこにあるのか想像もできません。
境内に「大正橋」があります。もちろん空(から)川ですから、旧鎮座地にあったものを移転したのでしょう。その他“一族郎党”引き連れての引越ですから、同じ境内に、新しい拝殿や社務所と年代が大きく隔たった石祠も同居していることになります。
南方御社宮司神社と旧鎮座地の位置関係がわかる写真です。
後日、南方御社宮司神社の跡に碑があると聞いて、中央自動車道の側道を歩いてみました。
藪に覆われかかった碑には「南方御社宮司神社跡」とあり、側面の刻みから昭和56年の建立とわかりました。背後が山になっていますが、これは車の通行の妨げにならないようにということで、あくまでその跡は高速道路の下ということでしょう。
市街地を挟んだ足長神社から、中央自動車道下にある南方御社宮司神社を撮ってみました。
上部の構造物が中央自動車道ですが、南方御社宮司社の旧鎮座地は、この写真では見ることができません。
国土地理院の地図では、現在の南方御社宮司神社のすぐ下が標高800mラインです。遙か昔はその下50mが諏訪湖面だったと言いますが、まったく想像できません。