「満開の小彼岸桜と枯れススキの対比を鑑賞してください」と言っても、ススキは全くの偶然で、撮影時には全く気が付きませんでした。
樹姿が違うのは、去年の台風で太枝が一本折れたからです。
茅野市神長官守矢史料館(神長官屋敷)の南西に、大祝諏方家の墓地があります。その中央には、「祖霊」と刻まれた神祠があるのが一般の墓地と異なっています。
なだらかな斜面に沿って何列かに分かれた自然石の墓石が左右に広がり、奥の列はすでにここによく馴染み風格さえ感じました。
墓碑銘を読むと、最古と思われる元禄五年以降の墓石には仏式の「法名」が彫られています。最前列が「本名+墓」であるのは、明治の神仏分離令が発効された以降に亡くなった人で、仏式の影響を完全に断ち切ったためでしょう。何しろ、神仏習合の時代では「大祝でさえ神葬は許されなかった」という“逸話”が残っています。
高部歴史編纂委員会『高部の文化財』は、「戦前はイチイの生け垣で囲われていた」と書いています。背後の、すでに立木と化したイチイがその名残でしょうか。また、写真ではわかりませんが、その後ろにある墓地が「大祝家の筆頭家老職として仕えた土橋家代々の墓」であることを同書で知りました。
地元紙『長野日報』は、シリーズ『風林火山を行く』を連載しています。〔その18 諏訪氏滅亡と高島藩諏訪家〕に、抜粋ですが「大祝・諏訪頼重をもって諏訪氏滅亡といわれる。しかし、江戸時代の高島藩主は諏訪氏であり、その関係を不思議に感じる人が多い」と書いています。
その疑問を「諏訪頼重滅亡後、従兄弟の諏訪頼忠が大祝職を継いだ」「その後、諏訪頼忠は初代諏訪藩主となり、その子の代から、頼水の藩主家と頼広の大祝家に別れた」と解説していました。
『神長守矢氏系譜』の〔重實(重実)〕の代から、「一書云」とある一文を転載しました。
補足すると、頼忠の長男が頼水で四男が頼広(頼廣)という関係で、この時から藩主家は「諏訪」・大祝家は「諏方」と書き分けるようになったということです。そのために、「大祝・諏方家の墓地があります」という書き出しになったことが理解できたかと思います。
墓地の前にある「霊誌」から、歴代大祝の部分だけを載せました(現在は、弘彦神霊が加えられています)。確かに「諏方家」とあります。
目を通すと、諏方家の初代大祝・頼広は「頼廣彦神霊」と刻まれ、左に頼寛・頼隆と続きます。因みに、13代の頼国は、京都の公家鳥居家から迎えた人だそうです。その孫が『最後の大祝』で紹介した15代目「(故)諏方弘」氏になります。
ただし、初代と二代の墓石はこの墓地には見当たりません。
高部歴史編纂委員会『高部の文化財』〔上社大祝諏方家御廟所〕から抜粋しました。
これを読むと、「諏訪の国譲り」から始まった建御名方命と洩矢の神の確執が、ついに「墓譲り」という事態になったのかと見てしまいます。
しかし、なぜ大祝家が墓地の明け渡しという“墓譲れ”を強要したのか、また、なぜ神長官がそれを呑んだのか、その理由を史料に見つけることはできせん。
茅野市神長官守矢史料館『神長官守矢史料館のしおり』に、守矢早苗さんが寄稿した〔神長官家からの眺め〕があります。小項[屋敷周辺の地形から]を転載しました。
『高部の文化財』は“話(説)”として紹介していますが、守矢家の当主は“事実”として書いています。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項 茅野市ちの篇』に、〔頼岳寺境内墓地の配置図〕が折り込まれています。その中に「大祝」と書かれた囲み(墓域)が二ヶ所あるのに気が付きました。「それに関連するものは」と探すと、以下の一文がありました。
ここには「依頼主」が書いてありませんが、大祝家が絡んでいるのは間違いないでしょう。しかし、大祝であっても、仏葬でしかも法名も授けられた“仏様”です。「そこまでしなくても」との疑問も湧きますが、「分離令」の発効を、仏教から完全脱却できるチャンスと捉えたのかもしれません。
そうは言っても、墓地の改葬は、土葬ではかなり困難な作業になります。物理的な移転と違い、「眠っている人を(堀)起こす」ことになるからです。そこで、墓石だけを移転する方法を選んだのでしょうか。
「何か繋がるものが…」と、久しぶりに頼岳寺へ行ってみました。5月並みの気温となった今日ですが、境内の日陰には、除雪で積み上げた名残の雪塊がありました。本堂を右手に見て墓地に向かいますが、杉葉で覆われて墓域と参道との区別が付きません。(座棺なので)眠っている人の頭を踏んづけている可能性もあるので、「失礼します」と心の中で何回も頭を下げながら核心部へ向かいました。
〔配置図〕を広げ、頼岳寺開基の諏訪藩主頼水と両親の廟所である「理昌院・永明庵・頼岳庵」をその中心に据えます。次に、その相対位置と周囲を囲む墓所から「大祝」と書かれた墓域を特定しました。
“墓地跡”と言ってもいいでしょうか。この一画だけが隙々(すきずき)しています。それでも、取り残されたように、数基の墓石が立ちまたは横たわって(倒れて)いました。
これは下壇にある大祝の墓域ですが、こちらも境がはっきりしません。右の大きな墓石には、最高位である「院殿+大姉」の名があります。大祝の家系であっても、何らかの事情で残されたのでしょうか。
これで二ヶ所の墓域を廻りました。しかし、墓石がないことを確認しただけで、『諏訪史蹟要項』の記述に続くようなことを見つけられないまま頼岳寺の参道を下りました。
「運び去られたその先」ですが、やはり「高部の大祝廟へ」とするのが順当ですが…。
高島藩初代藩主諏訪頼水は、頼岳寺を自身の菩提寺として開基しました。弟の頼廣は同じ初代の大祝ですが、下位(おりい※退位)すれば分家(家臣)の一人という身分です。兄の廟所がある墓地に葬られ、その区画が『諏訪史蹟要項』にある「大祝」ということでしょう。まだ「大祝廟」というものが確立していなかったことが推察でき、高部の大祝廟に二代までの墓石がないことも納得できます。
「頼岳寺の大祝の墓は二代まで」とすれば、墓石の移転「明治初年」と高部の大祝廟「江戸時代初期」とは競合しなくなります。そうなると『諏訪史蹟要項』の「運び去られて今は無し」に戻り、ここまで膨大な時間を費やして足し算引き算を繰り返してきたことが無意味に…。