「天正の頃、(前宮から)此の所宮田渡(みやたど)に移り、宮川を外濠として四周に堀を廻らし武家と神殿を兼ねた宏壮な邸宅を営み、中興の大祝(おおほうり)諏方頼廣が居住した。(中略) 此の時から藩主は諏訪氏、大祝は諏方氏を名乗った」とは、大祝邸前にある案内板の一部です。
著者名不明の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から転載しました。
ここでは、神殿(大祝屋敷)の普請(建築)年を「慶長16年(1611)」としています。
中洲公民館刊『中洲村史』に〔大祝屋敷〕があります。ここに「住宅は1/3にも縮小されている。広い庭も荒れて惜しい。邸内には中部屋社があり、春日神社を祀る欅造りの社殿が見事である。この社の御柱は宮田渡の村中だけで奉仕している」とある他に、面白い話が載っていました。
これだけを読むと「高い栗の木があった」としか理解できません。これは、大祝霞朝(頼武)の『彰徳碑文』を読んで初めて合点できます。「安政六年二条家より栗の本を允許(いんきょ)せらる、時人これを栄(はえ)とす」とあるので、小林一茶が「それを知っていた」ということになります。この「彰徳碑」は大祝邸の前庭に建っています。
昭和12年発行『諏訪史第二巻後編』に載る写真を見ると、総門の屋根は板葺きで、開いた扉から玄関が見えます。同じ板葺きの庇(ひさし)の上に「諏訪梶」の蟇股が確認できました。
諏訪市博物館で、上社周辺の散策地図をもらいました。目的の「旧大祝邸」へ向かうラインの先は、私には未知の土地です。キョロキョロしても変わったものを見つけられない中で、突き当たりの右前方に旧大祝邸が現れました。
赤門と呼べそうなトタン葺きの総門はかつての面影を残しています。扉が大きく開いているのを、「自由に入ってください」と解釈しましたが、やはり気になります。邸内の空気を乱さないように、そっと歩みを進めました。
母屋は極一般に見られるトタン葺きの平屋です。余りにも「大祝」の「屋敷」の「跡」を意識し過ぎたためなのでしょうか。これ以上の無住には耐えられない、と押さえつけた悲鳴が聞こえても不思議ではないような荒れ様です。
東側に廻ると、肥料袋や飲料の空き缶、脱ぎ捨てたままのような履き物類など、普段の生活から人間だけが蒸発したような荒れ方に、突然起こったこの家系の複雑さがうかがえました。訊くところによると、当主は現在長野の施設に入院中と聞きました。由緒ある家系がここで絶えるかも知れないとも聞き、時代の流れを感じました。
蔵は、タンポポの綿毛やフキが茂った庭と干上がった池を挟んだ北側にあります。白壁を見上げて気が付いた「諏訪梶」に、初めて諏訪神社上社大祝の敷地内に立っていることが実感できました。
この蔵は、その時代その時の大祝の歴史の一部を連綿と伝えてきた大きなタイムカプセルとも言えます。しかし、その扉が開放されるときが大祝諏方家が閉じられる時と知り、一心同体であった、現在は宗教法人に変わってしまった諏訪大社を想いました。
右隣に立つ大きな木は、諏訪市指定天然記念物のイチョウです。黄金色に染まる秋にこの屋敷が少しだけ輝くような気がして、その時にまた訪れようと決めました。