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大四御庵社 富士見町御射山社

中世の四御庵社

 武井正弘著『年内神事次第旧記』では、大四御庵の[注釈]に「御射山に仮設する大宮(※本宮)の籠屋(こもりや)。茅の穂で葺く穂屋である。以下、前宮・磯並・下宮の各社の四御庵も設けられた」と書いています。大変わかりやすいのでプロローグとして転載しました。

 戦国時代になりますが、永禄9年(1566)の「廃れた神事を再興しろ」という武田信玄『諏訪上宮祭礼退転之所、再興令次第』には、「一、御射山四御庵退転に就き神前の文書開き見の所、桑原上下両郡の役に為すべし…」と見えます。戦乱が続いた一時期には、仮屋であっても造営が途絶えていたことがわかります。以下は、同書にある四御庵の仕様です。

付・一社材木数大般此の如し
一、柱三本長さ一丈五尺大もちたるべきの事
一、棟木二本長さ一丈八尺 一駄二丁付の事
一、裏の柱三本長さ六尺 一駄二丁付の事
一、垂木三十本長さ一丈八尺の事
一、屋中(床)六枚長さ一丈八尺の事

大四御庵社復元図 左図は、宮地直一著『諏訪史第二巻後編』に載る、「永禄下知状に掲出する」とある「四御庵復原想像図」です。一目で理解できるので、カラー化して転載しました。ただし、「柱三本・裏の柱三本」が“4本”で描かれています。想像図なので、柱の数(宮地博士)にクレームをつけるより「形状が判ればそれでよい」としました。
 大祝の参籠(宿泊)所でもこの仕様です。雨でも降ればとても寝られたものではありません。また、生き神の大祝といえど蚊が襲うはずですから、煙いのは我慢して一晩中焚き火でいぶしたのでしょう。庵が全焼したという記述も納得できます。


改めて「四御庵」とは

 御射山には、大四御庵・前宮四御庵・磯並四御庵・下宮(しものみや)四御庵があります。誰も言いませんが、計四棟の庵で「四御庵」と書いてみました。
 大祝が参籠する大四御庵は上社本宮を表すので、御射山に鎮まる山御庵の前に「上社の本宮と前宮・磯並社を“再現”した」ことがわかります。下宮四御庵は下社ですから、上社が“招待した”と考えるとわかりやすいでしょう(か)

『年内神事次第旧記』での名称

現在の御射山社 23.8.22 

大四御庵社

 「大四御庵社」の背後から撮った御射山社境内です。右側に「子安社」と「神功皇后社」が鎮座し、左に少しだけ見えるのが「磯並社」です。無記入とした中央の瑞垣は、新たに設置された「伝大祝有員(ありかず)墓」です。
 最後に、木立を透かして小さく見えるのが「御射山社・国常立命社」と説明してみました。自分でもわかりにくい写真と理解していますが、このアングルでは、この写真しか撮れません(悪しからず)

江戸時代初期の御射山社

上社古図
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』(一部)

 左図は、名称は異なっていますが、上写真に対応している『上社古図』です。ただし、現在ある石鳥居を下部の「今ナシ」鳥居と勘違いすると、方向が逆になりますから注意してください。
 この絵図では、内が大四御庵社です。『諏方大明神画詞』に書かれている「旗二流 左梶葉・右白」が大四御庵社に描かれていて、「本当だ!」とうれしくなりました。

現在の御射山祭

大四御庵社 写真は、御射山祭当日の大四御庵社です。諏訪大社上社本宮から渡御した「諏訪明神」の神輿を社前に安置して、「大四御庵社祭」が行われます。
 大四御庵社祭が終了すると神輿は最奥の御射山社に運ばれ、御霊代が本殿に遷座します。
 その後、御射山での全ての神事が終わると御霊代は再び神輿に乗って本宮へ帰りますから、神輿の渡御は、かつての大祝の参拝を再現していると考えることができます。

現在の名称

 細川隼人著『富士見村誌』〔境内諸社の社名社格並び祭神〕から、関係するものを書き出してみました(社格は略)

御射山社 建御名方命・大己貴命・高志沼河姫命

大四御庵社 大己貴命・事代主命・建御名方命・下照姫命

虚空蔵社・国常立社 虚空蔵菩薩・国常立命

三輪社 大物主命

神功皇后社 息長足姫命

子安社 不詳(一に云う、高志沼河姫命)

磯並社 大山祇命

 「少し違うかなー」と思いますが、これが『富士見村誌』の見解です。