“初めての人”に「旧道」と言っても何の意味もありませんが、諏訪湖沿いのバイパスができるまでは、山裾を通る通称「西街道」が幹線道路でした。
その旧道から撮った、左上のポコッと飛び出た濃い緑塊が「小坂御頭御社宮司社」です。「古墳ではないか」と見た人は大当たりで、「糠塚(ぬかづか)古墳」の上に鎮座しています。
ところが、その直近に立っても、どう行っていいのか悩みます。民家の間の小道は、どう見ても私道のように思えるからです。遠回りになりますが、人家が途切れた下にある狭い道を通った方が無難としました。それが正解で、裾を廻って墳丘上に至る道でした。
まず目に付いたのが鳥居の後ろにある大木、ではなく前の「大石」です。この下が古墳と知っていたので、その「蓋石」と見ました。写真には写っていませんが、左方にある神社は「伊藤姓祝神社」でした。
『糠塚古墳「御頭御社宮司神社」の由来』とある案内板の一部です。
諏訪大社の名称は戦後。「大祝」のふりがなが「おおほりい」になっている。「入信」は「信州(信濃国)に入る」ことなので、「諏訪に入信」では意味不明になる。これは「入諏」2文字で事足りると、早々に突っ込みを入れてしまいました。
しかし、設置者が「岡谷市教育委員会」ではなく、「いけいけ山っ湖事業委員会・遊歩道整備事業コミュニティー部会」とあるのを見て納得しました。
御頭御社宮司神社の社殿額は、官幣大社諏訪神社時代の高階研一宮司の揮毫でした。
拝礼をしてから拝殿をのぞくと、私には「なぜ」としてしまうダルマが置かれています。これは、「小坂姓御頭御社宮司社」とあるように、現在は「小坂さん」の祝神社(氏神社)になっていることで容認できます。しかし、私は旧小坂村の御頭御社宮司社として来たので、パーソナル神社には拍子抜けしてしまいました。
墳丘の斜面に、貝殻が散在しているのを見ました。古くはすぐ下が諏訪湖面だったと言われていますから、古墳築造以前は貝塚だった可能性があります。
貝塚とすれば、縄文から現在までの遙かな時間差を直接目にできるのは、諏訪でもここだけということになります。国土地理院の地形図では、標高770mでした。
小坂区史編纂委員会『小坂区史』から〔御頭御社宮司社〕の一部を転載しました。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項・湊村篇』に〔頭首〕の解説が載っています。紹介する機会がないので、縁の深い「小坂」御頭御社宮司社の最後に加えました。
江戸時代以降は、小坂村には「頭首」と呼ばれる小坂氏がいて、御頭の神事を全て仕切ったとあります。強引な“例え”ですが、(これしか浮かばないので)吉良上野介で有名な祭典に通じた吉良家を挙げました。古記録に「御頭郷に当たると、頭首へ挨拶に行く」とありますから、いかに重要職であるのかがわかります。また、「十間廊之図」には御頭祭の席順が書いてあり、“民間”では最前列中央の位置が頭首になっていました。