嘉禎三年の奥書がある『諸神勧請段』に、正一位大明神(諏訪大明神)から始まる(くだけた言い方ですが)“神呼び”があります。その中から、「白山権現」に続く「鹿乙明神」の段を、関係する部分のみに絞って転載しました。
私には「鹿乙」に振り仮名を付けることはできませんが、読みやすく変換すると「鹿乙の北の林の鈴虫は / 鹿乙の明神終始嬉しと仰すらん」となります。ただし、『諸神勧請段』に載る神名以外のフレーズ「キタノ…・シヤウシ…」は他の神々と共通ですから、「北の林の鈴虫…」などに、鹿乙の説明を求めることはできません。
いつもの習いで「鹿乙」をネット検索に掛けると、「鹿乙温泉」しか表示しません。それも「その名の由来」を提示していませんから、この『諸神勧請段』だけに載っている「鹿乙」については、どのような神なのかわからないままになっていました。
細野正夫・今井広亀著『中洲村史』〔神宮寺村を行く〕にある記述です。
『中洲村史』では「辻」とある交差点に、「旧杖突峠入口の道標」があります。その道標が主題とあって「鹿音茶屋跡」は一部しか写っていませんが、見越しの松(ブロック塀)とバス停の間にある道が「馬方衆が通った杖突道」です。
この鹿音茶屋とされる一画はブロック塀で囲まれた更地ですから、隙間から何かの石碑が見えるという程度の認識で過ごしてきました。
今年になって、東京在住という守矢さんから、自サイト『神長官守矢家の家紋「丸に左十」』に「リンクを貼らさせていただきました」とメールが届きました。文面から当人が鹿音茶屋の子孫と知って驚きましたが、鹿音茶屋跡に残る蔵に「丸に左十文字」の家紋があると言うので、まずはそれを確かめることにしました。
いつの間にかブロック塀が一部取り払われており、中の様子が手に取るようにわかります。その奥まった蔵には確かに「丸に左十字」があり、一目で“守矢さんの蔵”とわかりました。昭和63年の調査では長沢町に4軒の「守矢姓」があるというので、その中の一軒に入るのは間違いありません。
メールには、参考資料として『信陽新聞』の切り抜き写真が添付してあります。その他に幾つか興味を引く文がありますが、本人の承諾を得ていないので、その記事『龍門紀傳』のみに絞って話を進めることにします。
「この十篇の文章は、昭和四年六月二十三日夕刊から七月二日の夕刊まで、信陽新聞に掲載されたものである」と説明があります。まず当時の切り抜きが現存していることに驚かされましたが、その中から鹿乙に関する部分を転載しました。
この記事には、鹿肉販売をした守矢氏の屋敷神が「鹿乙明神」とあります。ついに『諸神勧請段』の「鹿乙明神」が繋がったとキーを打つ指先に力が入りましたが、…残念ながら「其の祭神を詳らかにしない」「御贄の鹿に関係ある」で終わっていました。
ここには「鹿音」の名が出てきません。茶屋「鹿乙」の耳伝え「しかおと」が「鹿音」と転化して『中洲村史』に記録されたのか、今となってはわかりません。
その後に寄せてくれた情報ですが、「鹿乙明神については、(資料には)天狗山の石祠ではないかと書いていますが、一切は闇の中でたどる術がない」と変わりはありませんでした。
天狗山なら「あの天狗山か」と、自サイトの『諏訪市天然記念物』を開くと、まさに「天狗山の石祠」です。
7年前の探訪時には単に「守矢さんの祝神」で終わっていましたから、ここで、その祠が「鹿乙(鹿音)の守矢氏」と重なりました。
再び、守矢さんからメールが来ました。「1962年守矢牧の御柱祭とタイトルがついていた」とある添付写真があり、「牧(まき・巻)は我が家を含めて6軒でした。よく初午の日に持ち回りで当番の家が幟旗を立てて守矢の家が集まり、宴をした記憶があります」と書いています。
これで、左の祠が「鹿乙明神」と判明しました。また、「守矢氏ならミシャグジ」と連想しますが、「初午」ならお稲荷さんを祀っていることになります。しかし、諏訪では稲荷とミシャグジが習合している例があるので、どちらとは言い切れません。
右の祠が木製であることに気が付くと、現在は石祠ですから、イチイの洞(うろ)の中で見かけた朽ちた祠がこの写真のものとわかりました。