手長神社の幣拝殿がある上壇を中学校に向かって進むと、石段で降りる道があります。見下ろすと、一段下がった場所には境内社が軒を連ねていました。その前に立って順に観察していくと、「御頭御社宮司社」と書かれた祠がありました。
「下桑原の御頭御社宮司社は、手長神社境内に移転」と知識にありましたから、この木祠がその御頭御社宮司社と確信しました。
社前に置かれた、蓋と思われる板が被せられた白木の箱が気になります。「中に入っている何かを上に並べて、何かをした」と実体を伴わないイメージが浮かびますが、宮司が不在なので確認できません。結局、実像が結びつかないまま、さらに下の壇に続く道をたどりました。
諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 上諏訪篇』から、御頭御社宮司社の説明を転載しました。
祭神(建御名方命の御子神合祀)
建御名方彦神別命・出早雄命(他17柱は省略しました)
由緒 明治十一年十一月二十二日諏訪神社摂社に加列す
例祭 毎年三月十五日
御頭郷の節は御頭祭の三十日前祭典
最後の一行は、「御社宮司降祭」と理解できます。
さらに奥に進むと、御頭御社宮司社がもう一社あります。消えかかった社殿額に「御頭御社宮司社・金毘羅社」がかすかに読み取れます。
下桑原(現在の諏訪市)に御頭御社宮司社が二社あるのが不思議(変)ですが、「柳町区で毎年祭りが行われている」という以外は不明です。
渡辺市太郎編『信濃宝鑑 六巻』から、明治33年とある〔郷社手長神社之景〕とある絵図の一部を転載しました。
ここに「御頭御社宮司社」とあるので、“御頭御社宮司社”であることは間違いないようです。