新海神社というと、長野県佐久市の新海三社神社が知られています。Googleで「新海神社」を検索すると、実際に、「三社」を(勝手に)付加した「新海三社神社」がトップ20を占めています。
その“三社神社”に対抗して「否、諏訪にも新海神社あり」と声を上げても、こちらの新海神社はすでに名のみとなっており、現在はその詳細を紹介することは難しくなっています。
ここに、古文献や刊行本を漁る中で見つけた「諏訪の新海神社」の“痕跡”を、列挙してみました。
小口濤夫著『先宮神社誌』に〔先宮神社の社名の由来〕があります。以下に転載した文は連続していますが、説明上、三つに分けてみました。
ここに、「先宮新海大明神」と書いてあります。ところが、9月になって、地元紙『長野日報』で「先宮神社のぼり旗 75年ぶり新調」とある見出しを目にしました。気になった写真をルーペで拡大すると、「奉納 先野新海夜明大明神・天龍道人八十一歳敬書」と読めます。記事には「書かれた文字は天竜道人が奉納した当時を受け継いでいるという」とあるので、『先宮神社誌』の記述とは異なる結果になりました。
ここでは、山田肇さんの著作を取り上げて、別称ではなく「二社説」を紹介しています。
ということで、『先宮神社誌』は、二社説を裏付けるものとして境内社の新海神社を挙げています。しかし、その新海神社は、明治初頭までは(先宮から離れた)清水久保の地にあったということですから、関連付けるのは無理でしょう。
その境内社「新海神社」を確認するために、先宮神社へ出かけました。しかし、境内のどこを探しても見つけることはできませんでした。
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史下巻』には「清水久保の新海神社は、八劔神社境内に合祀した」と書いてあります。実際、八劔神社の境内には新海神社の石祠があります(左)。
こうなると、先宮神社には新海神社が存在しないことから、『先宮神社誌』の記述がおかしなものとなります。
ここまで「清水久保から移転」と何回も書いてきましたが、その清水久保には、現在も「宮坂巻」として新海神社が鎮座しています。
『諏訪史』の記述を否定するような祠の存在ですが、この矛盾は、旧跡地となっても新たに祠を建立して祀る例が結構あることから説明がつきます。やはり「先祖代々から祀ってきたこの地がふさわしい。明治も遠くなったし」という思いがあるのでしょう。
再び『先宮神社誌』を読んでみました。明治30年とある『取調書』を見つけましたが、「備考」として挙げたものなので、器物の具体的な名はわかりません。
一、先新海社
本社(※先宮)器物中此唱号の記載あり
これを「先(の)新海社」と読むのか、「佐久新海社」とするのか…。結局は、この四文字だけではヒントにもならないことがわかっただけに終わりました。
延宝七年(1679)に書かれた『社例記(写)』と『下諏方社例記(写)』があります。上社の『社例記』の〔前宮〕では、摂末社の一つ「一、手長明神 神子屋」の他に、
を挙げています。古文献では神社の名を祭神名で書いている場合があります。その一つの例が「手長明神が先宮神社」です。ここでは「先宮神社の別称が新海社」ですから、先宮神社と新海宮は別の神社として扱っていることになります。
さらに、『下諏方社例記』の〔秋社(秋宮)〕では
と書いているので、下社(側)にも「真海社」が存在していることになります。しかし、この真海社には「大和(おわ)村」と附記してあるので、上社で言うところの新海宮と同じ神社であると考えるのが妥当でしょうか。そうなれば、「上社と下社で共有した」神社とする考え方も出てきます。
宝暦6年頃に書かれた小岩高右衛門『諏方かのこ』から、〔一、諏方大明神両社〕の一部です。
ここでも、諏訪神社下社の境外摂社の一社として書き留めています。
『祝詞段』などには、以下の一節が出てきます。
これは「下ノ宮(※諏訪神社下社)、小和(大和)の浜より寄する波…」と変換できますが、南東の風のみに起きる現象と解釈できるだけです。現在も諏訪市の大和が下諏訪町との境にあたるので、下社と大和村には何かの関係があるように思えますが、それ以上の繋がりは見えてきません。
『両社御造栄領並御神領等帳』があります。書目解題に「免田の定納とその神役の所(御造営銭とその出所等)」と「永禄年間信玄が再興を規定…書き留めたるものにてもあるべきか」とあります。この中から、下社の「末社之分」の一部を抜粋しました。「若宮」から「三澤十五所(※現在の三沢熊野神社)」まで書いてあります。
それぞれ、「鷺宮(先宮神社)の式年造営には、小松某が三貫文を負担した(集めた)・御柱は、大和村の甚六が責任者となって鷺宮の神田でまかなった」と読んでみました。しかし、解説はともかく「鷺宮が下社の文書に書いてある」ことが不思議です。上社の古文献では「鷺宮の式年造営は下桑原之役」とあるので“その通り”なのですが、「下社の末社」として書いているのが理解できません。
武井正弘著『年内神事次第旧記』から抜粋しました。
一、下宮(しものみや)神事※、鵲宮(さぎのみや)湛・馬場上湛・伴町・小井川も、何も御神事…
中世に書かれた記録ですが、鷺宮(鵲宮)で行う湛(たたえ)を「下社の神事」としています。これを、脚注で解説しているので併記してみました。
※下宮神事 下社領域内で行われた湛神事。大(小)県神使の廻湛は諏訪湖を一周する順路で、昼湛の大和村鵲宮(先宮)から土武郷と呼ばれた下社圏内に入る。…鵲(かささぎ)をサギと読ませるのは先宮の伝承の故であろうか。…
上社では先宮(鷺宮)を「三十九所」の一所としています。その先宮で行う神事が下社に向けたものであることから、鎮座地は下社圏にあったとも思ってしまいます。
このように列記してみると、「社殿は上社のもので、境内地は下社」という、上社圏と下社圏が重層していた地域が大和だった、との考えもできそうです。お互いに“自分たちのもの”という意識があったのかもしれません。
『諏訪史 上巻』〔第六章 中世の城館跡〕から高島城(茶臼山城)の一部ですが、面白い記述を見つけました。
これを読むと、今まで取り上げてきたことが合点できます。しかし、これは中世のことです。江戸時代のことを知りたいのですが…。
田中阿歌麿著『諏訪湖の研究』には諏訪湖の古絵図が幾つか載っていますが、いずれも「先宮・先ノ宮」と書かれています。唯一「新海宮」とある絵図がありますが、これは、以下の絵図を描き写したものでした。
左は、財団法人諏訪徴古会(ちょうこかい)蔵『諏訪湖岸古絵図』の一部です。天和三年(1683)に作られた絵図が長年の使用でボロボロになったので、新しく描き直したものとされています。
ここでは、先宮神社を「新海社」と書いています。ただし、「御神渡り拝観の記録用」とあるので、『諏方大明神画詞』の
の関係から、先宮神社を、現在の新海三社神社の分社と想定した可能性があります。言い換えれば、新海社は、御神渡りの記録に特化した先宮神社の別称ということも考えられます。
諏訪神社上社の摂社・末社でも、これだけの別称があるのは先宮神社だけです。また、大きく分けると「先と新海」の二系統になりますが、両名の間には確実にボーダーラインが存在していることは間違いありません。しかし、その“使い分け”は、時代の変遷では済まされないほど混沌としています。
最後になりますが、迷説であっても高く掲げるのを信条としている私ですが、さすがにまとめきることができません。最後まで読んでくれたことに感謝をしつつ、ひとまず筆を置きました。