標題の新川を、“昔”の風情が残っている今橋から宮川まで歩いてみました。
地図の右側にある「宮川」は、江戸時代には、この“新川の川筋”を流れていました。しかし、誰も信じてくれそうもないので、以下に『諏訪藩主手元絵図』を用意しました。川の名称はありませんが、幅広に描いてあるので宮川となります。
ここにある「諏方大祝」は、諏訪神社上社の大祝が居住した屋敷です。
この川筋は、かつて『字に残る「古」宮川(古川跡)』として紹介しました。それは最下段のリンクで読んでいただくとして、地図と絵図で紹介した、大祝邸の直近を流れる旧宮川筋を歩いてみようと思い立ちました。
現地の状況がわからないまま、取りあえずとして今橋の袂に立ちました。何気なく川面に目をやると、両サイドが板と杭で土留めされています。
その川辺に「小さな祠と御柱」が“設定”されていますから、正に「諏訪の原風景」です。写真ではわかりませんが、橋向こうの林の中にも祠が見えます。「まだこんな所があるんだ」と、この暑さでは一時ですが、背中にへばりついている汗の不快感を忘れました。
少し迷ってから、写真では左上方向となる川の流れに沿って歩くことにしました。ところが、橋から向こうは三面コンクリート貼りの川で、それに伴って民家や事業所の敷地が川岸まで迫っているという現状を知りました。廻り道で再び合流し、最後は「ここに出るんだ」と確認して、それ以上の遡行は諦めました。諏訪市博物館が見える県道の向こう側は、すべて碁盤目状の直線と化しているからです。
再び今橋まで戻り、今度は、逆方向となる川上へ歩きます。
諏訪大社上社本宮から大祝邸へ行く道は何回か通っていましたが、その道中で見ていたアパート「コーポビッグスカイ」の裏に、こんな道があるとは知りませんでした。しかし、民家の前では私道とも思える様相をしていますから、気が退けます。怪しまれないように、下を向いて足早に歩きました。
春には、正に「春の小川はさらさら行くよ」そのままでしょう。桜も並木になっていますから、今は葉色を濃くした木姿ですが、満開時と川面に散る花吹雪が想像できます。余りののどかさに、この道を毎日散歩できる地元民に嫉妬を感じてしまいました。
この先に、以下の案内板がありました。説明が詳しいので、全文を転載しました。設置者の表示はありませんが、内容から上金子区としました。
紛らわしいのですが、「旧宮川跡に、新しく開かれた川」ということで「新川」としたのでしょう。下流が「旧田辺村」なので、そちらの呼称「田辺堰」も併記したと思われますが、外からの目と成立由来からは、地元(旧金子村)の名称「新川」では戸惑ってしまいます。
案内板では「釜口水門」とある新川の取水口にたどり着きました。右が、茅野市の千野川社(亀石明神)の前から諏訪大社上社の近くを流れてきた宮川です。
しかし、「釜口水門」といえば、岡谷市天竜町にある“あの釜口水門”です。諏訪湖を「釜」に見立てての「釜口」ですから、この場所で釜口という呼称は馴染みません。謎を一つ手土産にしたことになりましたが…。
ここまで歩いたことで新川の“源流”が確認でき、まだ見ぬ「蛍の舞う新川」も知りました。
『語り継ぎ神宮寺の民俗』刊行委員会編『語り継ぎ神宮寺の民俗 下巻』から〔宮川の今昔〕の一部を転載しました。「胴ばり」は直接には関係ありませんが、「御柱」が出てきたので“ついで”としました。
地元誌でも「命名由来は不明」としています。しかし、ここで終わらせないのがこのサイトの「命」、というか執念深さです。さっそくネットで検索してみました。
『weblio 辞書』の歴史民俗用語辞典に「【釜口】鉱山において坑道の入り口」とあるのを見つけました。当初は水門のゲートがなかったため、トンネル状の取水口を「坑道の入口に見立てた」としました。これでしか説明できませんから、これが正解でしょう。
大祝邸の紅葉を見てから今橋に向かうと、何か様子が変です。すぐに、祠の傍らにあった木がないことに気が付きました。
切断面を観察すると、…中心部が腐食しています。「なぜ伐った」とこみ上げてきた怒りですが、枯れてしまってはやむを得ません。これで、(あくまで私の評価ですが)諏訪の原風景の格付けが下がってしまいました。
平成30年に撮った「桜咲く新川」を用意しました。
右が、『諏訪藩主手元絵図』では「諏方大祝」とある旧大祝邸の蔵です。
新川に際限なく流れる花弁を見て、その流速がわかりました。