ここ20年間、横内の交差点近くに周囲より抜きん出た大木が数本見え、神社の杜らしいとは思っていました。地図で確認すると、それが奇妙な名前の達屋酢蔵(たつや・すくら)神社でした。
達屋社と酢蔵社が合併して、長野県神社庁の表記も「達屋酢蔵神社」です。
木造の由緒書がありますが、風雨や紫外線の影響で木目が目立っています。そのため、この境内では最も古そうなモノに見えるほどでした※。文字もかすれというより断片化し、祭神の名前もわかりません。この神社に全く知識のない私は、「達屋酢蔵」という読み取れない文字列から、この神社の訳ありな由緒を想像してしまいました。
境内には、アルミ板に印刷された茅野市指定天然記念物「達屋酢蔵神社境内社叢」の案内板があります。
「神社の由緒書きが読めないから代わって」というわけではなさそうですが、「社叢」の説明文の5分の2を費やして「…当社は、達屋(立つ屋または盾屋)社・酢蔵社の両社を合祀したもの、…当社の御柱は、八ヶ岳御小屋神林より曳き出す特権を有する…」と解説していました。
拝殿・本殿を横から見る位置に、諏訪では「注連掛(しめかけ)鳥居」と呼ぶ鳥居がありました。諏訪大社本宮や御射山社にもある、鳥居でもなく注連柱(しめばしら)でもない、冠木(かぶき)門に注連縄を掛けたような鳥居です。
拝殿前に戻ると、「境内の地下には豊富な水脈があり、茅野市の上水道に供給している」という水資源開発の碑があります。
その一部である蟹河原(がにがわら)の湧水を引き込んだのが、左写真にある石橋の下を流れる用水路とわかりました。水温はかなり低そうですが、大きなコイは悠々と泳いでいました。
葉を落として露わになった奇怪なケヤキを撮ってみました。手前に写っている「これは素性がいい」という木が、諏訪大社社有林がある御小屋山から「特権」で曳き出された御柱です。諏訪大社とどのような結びつきがあるのでしょうか。何か、達屋・酢蔵神社は奥が深そうです。
茅野市『茅野市史 中巻』から〔達屋・酢蔵神社〕の一部を転載しました。
文中の「此の日…」は、明治期に書かれた『諏訪神社祭典古式』を引用しています。茅野市の編纂なので、以下に出る守矢家文書の方を挙げて欲しかったのですが…。
その、「嘉禎四年神事次第」と付箋がある『神事次第(断簡)』です。
これは、酉の祭り(御頭祭)に、国司が本宮に奉幣したという記録です。その際に宿泊したのが達屋神社(立屋社)とされ、「宿泊施設の敷地に達屋神社があった」または「達屋神社の社地に宿泊施設が造られた」とも考えられるそうです。さらに、その宿泊施設は「郡衙の建造物の一つ」ではないかとの話もあり、“立屋”との関連性を窺わせます。
また、茅野駅前で顕著に見られる断層崖からの豊富な湧水も、この地に諏訪明神以前の一大勢力があったことを示すもので、「蟹河原の長者」と「達屋酢蔵神社」の関連も見逃せないという話もあります。
酢蔵神社が合祀されたのは最近のことで、江戸時代の絵図では達屋神社に御領女宮大明神が並記されています。
それについて、旧村では隣に当たる中河原に「姫宮社」があります。案内板には、「…祭神伍竜(御領)女宮大明神は横内村に祀られていたが、その後宝暦九年に中河原村に遷座されて村の水神産土神として祀られ…」とあります。こうなると、分祀ではない遷座から「伍竜女宮大明神が遷座して“空座”になったので、別所にあった酢蔵神社を祀った(充てた)」ということになりますが…。
平成19年の5月末に御小屋山に登りました。その要所には、毎年行われる境改めの標柱が何本も立っています。その中に「横内評議員会」の文字や「達屋酢蔵神社印」の焼印を見つけました。
諏訪大社社有林との境を「物と字」で見て、「達屋酢蔵神社は、御柱を御小屋神林より曳き出す特権を有する」ことを思い出しました。諏訪大社社有林の1/3はあるという区有林です。どのような過程で特権を持ち得たのか、まだ明快な説はありません。
久しぶりに参拝すると、「修復 平成二十五年九月」とある『達屋酢蔵神社由緒』が新(再)設されていました。
読むと、「独自研究が含まれているおそれがあります」とは『ウィキペディア』の警告文ですが、それと同じものを感じます。そのため、読むのに詰まってしまう箇所が幾つかあります。しかし、それを指摘するのも「私の独自研究」となりそうなので、感想のみに止めました。