上社「上十三所」の9番目に位置するのが「千野河大明神」です。ここまではわかっていましたが、この神が坐す千野川社の所在がわからず未探訪(参拝)となっていました。茅野市のルーツとも言えるこの千野川社ですが、活字として読むことはあっても人の口に挙がるのを聞いたことはありません。
そろそろ決着を、とサイト『御柱祭』にある「小宮一覧」を開きました。目を細めながら罫線の中に埋もれた「千野川」の文字を探しますが、…載っていません。想像するに、どうやら小宮祭も行われないような祠だけの神社のようです。ネットで検索すると、「かたくりの里」関連のサイトに、ついでにという感じで載っている写真から場所が特定できました。
歩道の左右から通せんぼする草に構わず踏み入ると、挨拶代わりか嫌がらせか、まだ夏気分のスポーツサンダルとホワイトジーンズの靴下と裾に小さな緑のマーキングが幾つも付きす。払ってもしがみついている種に、季節はすでに秋と知らされました。
祠の写真を撮ってそのまま帰ればよかったのですが、向拝柱に刻まれた「奉納・亀石大明神」を読んでしまいました。それなら千野川社はどこに、と上に続く遊歩道を登ってみました。
すぐに出た「行き止まり」という結果ですが、運動不足の身では息が切れました。こうなると、一旦は否定された千野川神社が先ほどの祠である可能性が高まってきました。今はカタクリならぬ「ミズヒキソウの里」と化した薄暗い林の中から、遊歩道を占領した草々から種のお土産をもらって再び石祠の前に立ちました。
祠前に一基だけ神灯が“残り”、竿三面に「獻燈」「萬延二年」「武運長久」とあります。そこまではよかったのですが、竿裏に刻まれた碑文を見てしまいました。「万延二辛酉年建設(以下読めないので略)」の本文に対し、最後に「大正元年壬子十月吉日」とあるので、「亀石大明神」と同じくまた悩みが増えてしまいました。大正元年に、萬延二年建立の神灯に「萬延二年に関わる謂われ」を新たに彫り込んだ、としましたが…。それ以上漢字の羅列に執着するのは止めて、明るく開けた水路脇に戻りました。
水路の向こうに、亀石大明神の助けか千野川明神のお導きか、この手の話相手には“適齢”の男性が畑の手入れをしています。その彼から聞き出したのが以下の文です。
亀石は江戸時代以前に流され、茅野と御岳神社の関係はないと思いましたが、…黙っていました。
千野氏の末裔である千野廣著『千野(茅野)氏概説』に、以下の文を見つけました。
文中の「万延辛酉」から、私が参拝した千野川神社が「現在の亀石大明神」と同じであるのは間違いありません。そうなると、「亀甲形の亀裂がある二代目の亀石」があることになります。「亀」が三つ並んだのはまったくの偶然ですが、境内とはとても言えない斜面にはそれらしき物はありませんでした。
平成22年の11月になって、「もしや」と探してみることにしました。
葉が落ちきった境内では日陰の寒々しさだけが身に染みます。祠の中に白い幣帛があることで、諏訪大社の参向があり「千野川社祭」が行われたことが具体的な物として確認できました。他には新しい御柱が建っているだけで、亀石に当てはまるような石はありませんでした。