諏訪大社上社本宮の摂末社遙拝所に「長廊(ながはし)大明神」の神号額が懸かっています。下十三所の一つです。
社殿や門などの建造物を神格化することは、最近得た知識で知っていました。諏訪神社上社では、御炊殿−御炊明神・釜−御賀摩明神・中部屋−中部屋明神などがあります。標題の「長廊大明神」は「長い廊下で長廊」ですから、それに対応するのは「布橋」しかありません。長らく「布橋が長廊大明神」としてきましたが、調べていくうちに何か釈然としなくなりました。
式年造営の覚え書き『上諏訪社造営帳』には、「長廊は廿(20)間」と書いてあります。ところが、布橋は37間ですから計算に合いません。「当時はそんなもんだった」で終わらせることもできますが、それでは私の性分が収まりません。気が狂いそうになりながらも、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』の厚い本をめくり続けました。
「守矢家諸記録類」の中に、嘉禎4年(1238)の『神事記』に続いて造営関係の文書が二通収録してあります。「長廊」の名が出てきたので抜き書きしてみました。
共通して「長さ20間」とありますから、長廊は全長36mの建物ということがわかります。
『上中下十三所』の「馬頭」は、神仏習合で諏訪大明神を普賢菩薩としたように、長廊大明神を本地仏・馬頭観音にあてたということでしょう。「加茂神と同じ」は、上賀茂神社・下鴨神社の公式サイトを読んだ限りでは、祭神と馬との関係はわかりませんでした。ただ、上賀茂神社では、古くから騎射・流鏑馬が盛んだったことはわかりました。
最後の「長廊は、馬場廊(のこと)を申すなり」が、この文書の最大の“目玉”でしょう。改めて表明したような文言ですから、嘉禎の時代でも名前に混乱が生じていたことが想像できます。「馬場」から連想するのは笠懸や流鏑馬ですが、それらが行われていたとしても、すでに廃絶していた時代だったのかもしれません。いずれにしても「馬」がキーワードになっていますから、「長廊は、馬場に関連(付属)した建物である」と確信しました。
『十三所造営帳』は、「十三所」の各社殿の建て替えを誰が負担した(する)のかを記録したものです。長廊大明神にも、その長さ故か賦役の分担が詳細に書いてあります。
二間 |
北妻 | 小坂 |
二間 | 御座 | 武居・小河・大熊・高部・中嶋・古海 |
一間 | 下桑原 | |
一間 | 上桑原 | |
三間 | 栗林両條金子(※上金子と下金子) | |
一間 | 上原郷并加神戸村(※上原と神戸) | |
一間 | 上原 | |
一間 | 埴原田 | |
一間 | 粟澤 | |
一間 | 焼山・今泉 | |
一間 | 矢崎 | |
一間 | 千野 | |
三間 | 有賀・真志野 | |
一間 | 南妻 | 金子之役也 |
北側の妻入造の2間に続き、2間の「御座」があります。ほとんどが1から2間を1ないし2村で分担していますが、「御座」は6郷村で担当しています。“坪単価が高い”ということなので、この場所は「大祝が着座する場所」としました。
『上社古図』の一部です。
研究者は、下端の道に流鏑馬馬場があったと推定しています。下写真は、その推定地である、北参道の大鳥居前を横切る「宮下道」です。
現在見る境内は神楽殿の辺りから二之鳥居へ向かって(絵図では左方へ)「結構な上り坂」になっていますが、この写真も「同じ傾斜となった道」として見通せます。そのため、この坂を見る限りは、「流鏑馬馬場」があったとは思えません。
しかし、この傾斜は、ある時期に御手洗川の氾濫で土砂が堆積した結果と考えられるので、言い方を変えると、流鏑馬が行われていた頃は「まだ平地だった」ことになります。
『諏方大明神画詞』に、流鏑馬馬場の場所が窺える箇所があります。
研究者は「流鏑馬馬場は境外(宮下道)」としていますが、『画詞』からは、境内の「一と二の鳥居の間」を流鏑馬馬場に使ったことが伝わってきます。
一方で、『上社古図』には、布橋二間百二十間と書かれた長大な社殿が描かれています。ところが、この社殿には「今は現存していない」という「今ナシ」の付箋が貼られています。「長さだけが伝えられている幻の社殿」ということですから、私は、これが流鏑馬馬場に関連した長廊(以下馬場廊)ではないかと考えました。
馬場廊は20間なので、当然ながら「100間」の差が出ます。しかし、その100間は、馬場廊20間の前後に付帯した「仮設の桟敷100間」とすることができます。ここで流鏑馬馬場の長さを調べてみると、「一般的には2町」とあります。2町を換算すると「120間」になりますから、自分でも突拍子もない推論と思った「20間+100間」が流鏑馬馬場の長さと合ってしまいました。
「馬場廊の神事には大祝の座に布を敷いた」という記述があります。馬場廊の「御座」は2間ですから、《布橋の故事》に倣うと、2間の間口ではなく「布廊2間」ということになります。この「布廊2間を含む20間の長廊+仮桟敷100間」が「布橋二間百二十間」と誤って伝えられた可能性が考えられます。
『画詞』と同時代とされる『年内神事次第旧記』に、流鏑馬御頭の記述があります。
一、五月分、二日・三日・四日押立、(中略) 宮より馬場殿へ御宝物入申、後ニハ宮へ入申、同御頭例式、同六日流鏑馬御頭なり、
一、馬場之草打申次第、是ハ四日之日神長殿奉行也、
二間小坂北端・二間武居条 (中略) 一間金子南端、
前出〔長廊二十間〕の造営負担郷村と同じ順なので、「草打(草取り)」も同じ長さ・順番で作業を行ったことがわかります。
続いて、「一、同埒之次第」として馬場の埒(以下柵)を作る分担が書いてあります。わかりやすいように、左右の側に分けてみました。
左 18間・18間・12間・12間・12間・6間・30間 計108間
右 12間・6間・18間・3間 計39間 (担当郷村は省略)
左側の合計108間に馬場廊の20間を足すと「128間」になりますから、馬場の長さ120間に8間の余裕を加えたと考えられます。右の39間は矢を射ない区間ということでしょう。この数字からも「流鏑馬馬場百二十間」が符合します。
以上、笠懸馬場は現在の「宮下道」にあったとしても、流鏑馬馬場は境内に作られたとしました。
ここまで(私も困惑するほど)長々と書いてしまいました。まとめというか結論は、『上社古図』にある《布橋二間百二十間》は、かつて存在した「二間分に布を敷いた長廊を含む百二十間の流鏑馬馬場」となりました。