諏訪の御社宮司社を調べる中で、茅野市「上原」にも御頭御社宮司社があることを知りました。地図で確認すると、「ダイヤ精工」の敷地内にあるように見えます。
諏訪5市町村の中で唯一の存在である『茅野市字名地図』を開くと、その事業所を含む国道・バイパス・大道で囲まれたブロックは「御社宮司」とあります。そこで、ダイヤ精工の「現在の住所表示」はどうなっているのかと調べてみたら、「茅野市ちの」でした。
駐車場を「アクアランド」にしたので、葛井神社に寄ってから目標となるダイヤ精工を目指しました。ところが、バイパスからは御社宮司社の杜が見えますが、そこへ向かう道がありません。結局はダイヤ精工を3/4周回し、国道側にある、右側は民家・左は駐車場という狭い道をたどることになりました。
簡素な鳥居をくぐってツツジの群落を右へ回り込むと、まず目にしたのがダイヤ精工を背にした祠でした。その前に立つと、左方にも青屋根の木祠があることに気が付きました。
こうなると、「さて、どちらが御社宮司社だろうか」と悩みます。社殿の大小では決められません。見た目はみすぼらしいのですが、境内中央という位置と、御柱が圧倒的に大きいことから青屋根の祠を御社宮司社としました。
御頭御社宮司社の本殿といっても、簡素な木祠です。「御頭の年だけに必要とされる神社」とあって存在感が薄れるのはわかりますが、荒れ方が異常です。左の扉は開き、右は破損しています。“のぞき”をしなくても、神体の石棒が倒れ、その上に幣帛が置かれているのが見えました。
この境内には支柱だけ残ったブランコがありますから、かつては小公園として使われていたのでしょう。大木の木陰から子供たちの声が聞こえていたことを容易に思い浮かべられますが、今や、そのような光景は見られない時代となりました。
図書館で探しても、上原の御頭御社宮司社に関する資料がありません。やっと見つけたのが、著作者不詳の『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』です。
一、上原村 下村入口御頭御社宮司社に千本木実は樫にて七かひ半ふみ廻し四坪程有之、此木朽木と相成、文政二年八月五日(十五夜)夜乞食火を焚焼失す、又御頭屋敷は田の中之立
神社の記述ではなく、かつて大木があった・御頭屋を田の中に造った、というものです。
『茅野市史』に、「安政二年(1855)に親郷上原村の亭主番猪兵衛の記した『御頭政式日記』をたどりながら、御頭役の奉仕の概略を見てみよう」とある文がありました。その一部を転載しました。
専門社・御頭御社宮司社がありながら葛井神社で「御頭の神事」を行ったのは、恒久的な施設である葛井神社を利用するという利便性が大きかったのでしょう。明治になると精進屋も造られなくなったので、その存在意義は全く失われて、今見る社地に祠と御柱だけという景観になったと思われます。
神々を勧請する祝詞である『祝詞段』や『根元記』に、「上原の郷にチカト若宮久須井十三所上下御社宮神矢ヶ崎鎮守…」とありました。この「上下」を読んでしまったばかりに、“追伸”を加える羽目になりました。
『諏訪藩主手元絵図』から〔上原村〕を参照すると、現在の地図では(暗渠になったのか)見当たらない川を挟んで二つの御社宮神が描かれています。これが「上・下の御社宮司社」であることは間違いありません。
頼岳寺への道「遊女小路」を基準にすると、『旧蹟年代記』の「樫の大木」とも一致する「大木」の並記がある「御社宮神」が「御頭御社宮司社」に該当します。
ここで気になるのが、もう一つの御社宮神です。「あの辺りに何かあったっけ」と“瞑想”すると、全く意識外だった神社が浮かび上がりました。国道沿いにある、御頭御社宮司社よりはるかに立派な「祝神」です。
この巻(まき)の社殿が、江戸時代の絵図にある「御社宮神」でしょう。どちらが上・下なのか断定できませんが、「下村入口」から、こちらを「上御社宮神」としました。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項 ちの町篇』に、〔一、上下御社宮司〕がありました。
これを読んで、上写真が「上御社宮神(御社宮司)」と確定しました。
茅野市内を歩き回る中で、御頭御社宮司社へ寄ってみました。久しぶりとなる参拝とあって、祠が新しくなっているのを知りました。今年は御柱年ですから、これも新しい御柱が建っていました。
ところが、相変わらず扉がオープンになっています。ロックができる仕様になっていませんから、(真意はわかりませんが)意図的に開放しているのかもしれません。