前宮本殿へ向かう石段脇にあるのが「内御玉殿」です。
社殿だから「うちみたまでん」と読みがちですが、かつて前宮に居住した大祝の館「神殿」を「ごうどの」と読むように、「うちのみたまどの」とするのが正解です。ただし、「でん」と発音しないと、良識を疑われる羽目になるかもしれません。話す相手を選んで使い分けるのが“諏訪大社通”でしょう(か)。
諏訪大社社務所刊『諏訪大社復興記』では、「天正13年改修後に一部修築」とあります。私にはかなり新しく見えるので、一部であってもその頃の部材が残っているとは思えません。「一部修築」がいつ頃行われ、どのような内容であったのか気になります。昭和7年の前宮本殿新築時に、内御玉殿を修理したことを指すのでしょうか。
下は、東京諏訪子爵家蔵とある「前宮内御玉殿棟札(写)」です。この時代は、相次ぐ戦乱で諏訪神社が衰退し式年造営もままならなかった時代です。諏訪を手に入れた武田信玄が、懐柔策で社殿を寄進したのでしょう。
「是は信長の時焼失」と添付があります。その後の天正13年(1585)に諏訪頼忠が再建した後も式年造営はなく、何回かの大規模な改修があったことは確実ですが、最後の修理がいつ行われたかの資料はまだ見つけられません。['10.7.10 挿入加筆]
同書には、「内御玉殿 祭神一云(一に言う)本社の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)也」とあります。因みに、下社秋宮の「内御玉戸社・外御玉戸社」も幸魂・奇魂を祭神としています。
學生社版『諏訪大社』では、「古くは神宝・真澄の鏡や八栄の鈴等を納め人々に拝閲させて、その神威を示したといわれる」と書いてあります。下記は、『諏方大明神画詞』の「三月巳」の項です。
左写真は、祭事表では「大祭」とある「内御玉殿祭」で、「御頭祭」終了後に行われます。
神事は、献饌・祝詞奏上・玉串奉奠だけの簡素な神事です。現在は、内御玉殿の宝物は上社本宮の宝物館に収蔵されていますから、「今日は例祭日」だからといって無料拝観を期待してはいけません。
初めは、「隣だから、御頭祭のついでに内御玉殿祭も」と思っていました。ところが、御頭祭を含む13日間の神事「春祭り」の最終日に「内御玉殿の神宝を参詣人が見た」と書いてあります。かつての長期に渡る神事の最後を締めくくった「神宝拝観」が、御頭祭と同日になるなど、規模は大幅に縮小したものの「内御玉殿祭」として現行でも残っていることがわかりました。
左は前宮本殿の朝御饌(みけ)帰りの神職で、右手前は十間廊(じっけんろう)です。撮影位置は90度違いますが、上の平成18年の「内御玉殿祭」時とは景観が違っていることに気が付いたでしょうか。
季節は内御玉殿祭から一ヶ月後の5月ですが、平成15年の写真です。この時はまだ石段がなく、今思えば、のどかというか古き良き趣がまだありました。それが、私が“良し”とする景観を壊すように狛犬が設置され、白御影石の鳥居が建ち、石段に代わってしまいました。因みに、御柱はこの坂道を曳行されて前宮本殿へ曳き付けられます。