製薬会社の名が(なぜか)まとまって彫られている玉垣を正面から撮ってみました。その時は気がつかなかったのですが、モニター上で見ると、玉垣とケヤキが左右対称であることに気がつきました。玉垣の間も何かの入口のように見えます。
後日、改めて玉垣の中央に立ってその足元を注視すると、乱れた石の配列が二段の石段であることに気がつきました。かつての参道入口のようです。この先に何かの社殿があったと想像されますが、古社によくある「イマナシ」です。写真の右端にわずかに写っている前宮社務所がありますが、「問うほどのこともない」と何回かの四季をやり過ごしてきました。
ある日、座右にある昭和53年発行という三輪磐根著『諏訪大社』を目的もないまま開きました。その中の「上社前宮配置図」を眺めていると、前述の場所が「若御子社」となっていました。
遠近感がない上写真では、二本の立木の間に若御子社が鎮座しているように見えますが、位置的には境内最奥の石垣の前です。そのため、若御子社は本の発刊以降に現在地に移転したことになります。旧鎮座地を配慮したのでしょう。入口(跡)から見ると今でも正面に当たりますから、そのままズズイーっと下がったことになります。「現在の若御子社」は社殿・基壇とも新しいので、かつては「ケヤキの間に、小さな木祠がポツン」という状態だったのでしょう。
若御子 若御子社とあるように、諏訪大社祭神「建御名方命」の御子達を祭っています。前出の『諏訪大社』には、「諏訪神系図では二十二子神が記録されている」とその一覧も載っていますが、各々の名前を挙げても読む人はいないと(決めつけて)省略しました。
十五社 その中にある「世に『十五社』あるいは『十五社明神』と呼ばれている神社は、御子神のうち、とくに信濃の国の開拓に偉大な功績を立てた彦神別命をはじめ十三神と、(両親である)建御名方神と妃神八坂刀売神を併せ祀ったものである」との記述に目が留まりました。
諏訪には各所に「十五社」があります。私は何故「15」なのかと疑問を持っていましたが、これを読んで納得しました。