北斗神社から“下界”を見下ろすと、急な石段を横切るかすかな踏み跡が見えました。その先を目で追うと、…木立の中へ吸い込まれるように消えています。こうなると、林の向こうに何があるのか気になります。
石段から分かれて木々の間を潜った先には、当然ながら桃源郷は現れず、どこにでもある3月の山畑が広がっていました。枯れきった畑を区切る道を伝うと、御柱に挟まれたようにも見える若宮社の横に出ました。
狭い境内を一巡りしてから県道側へ降りると、今日やるべきことは全て終了したかのようなおばあさんが、一番下の石段に座っています。
その横に立ち、ある答えを期待して「ここは何という神社ですか」と声を掛けてみました。呆れたような「諏訪大社(に決まっているではないか)」の声に、目と鼻の先に見える諏訪大社のことを訊かれたと勘違いしたようでした。改めて若宮社の社殿を指差して聞き直すと、「八幡様」と思いもよらない答が返ってきました。
話は少しさかのぼりますが、茅野市の前宮方面から下馬沢橋を渡ると、市指定の文化財でない限り案内板が全く見られなくなります。諏訪市に入ったためで、茅野市前宮周辺で多くの案内板を設置した「安国寺史友会」の恩恵が全く受けられなくなります。
「本宮三之鳥居」脇にあるこの神社も案内板の類が全くありませんが、以前より、鎮座地を神宮寺とする「若宮社」ではないかと睨んでいました。ある日、本殿の裏側に「若宮社改築費寄附人名□」と、下部ほど薄くなる字が書かれた板を見つけて若宮社に間違いないと確信しました。
そこで、念のために裏を取ろうと地元のおばあさんに聞いたわけですが…。多分子供(か嫁に来たとき)の頃から馴染んできた神社ですから、その自信を持った返答の「八幡様」に矛盾する「若宮社改築費」の存在に悩みました。
中洲公民館『中洲村史』に「若宮」の項がありました。
改めて調べると、五巻ある『大祝職位事書』の内、最後の文明16年(1484)と翌年の『諏方大祝殿御職位ノ時十三所御社参次第』から(若御子社が)「若宮」になっています。こうなると若御子社の別称が若宮と言えそうですが、現在の若御子社は前宮にあり、摂末社三十九所に若宮と共に名を連ねていると言う事実があります。
これは時代の変遷、つまり三十九所の初期の形態である十三所では若宮社=若御子社だったものが、十三所御社参が廃れれば若御子社を前宮に移して前宮周辺でのみ神事が行われるようになったと説明できます。ただし、依然として若宮社は三十九所に名目上として残り、それも諏訪大社の手を離れれば新たに八幡神社を迎えて現在に至ったと考えてみました。
『中洲村史』に、境内入口にある「寛延二年(1749)」銘の常夜灯の詳細が載っていました。高さ3.1mで、「検地が済んだ記念に、長沢町と南町で奉納した。長沢町40軒南町23軒のうち、59人が68文ずつ出しあった」とあります。しかし、59×68文が、現在の貨幣価値でどのくらいなのかは見当も付きません。