山御庵(やまみほ)は、中十三所の一社として上社本宮の「摂末社遙拝所」にその名前が見えます(左端)。「大四御庵」とともに御射山に鎮座していますが、時代や文献によって様々な呼称があります。
『諏方大明神画詞』では「山宮」とあり、江戸初期の絵図には「三輪社・虚空蔵」と書かれています。現在は長屋の拝殿内に御射山社と国常立社が並んでいますが、山御庵に相当するのは「国常立社」です。
左は、守矢文書にある式年造営の記録『上中下十三所造営』から転載した「山御庵」の一部です。
山御庵の祭神は国常立命ですから、本地仏の虚空蔵菩薩は納得できます。しかし、ここに「大倭三輪同體之神也(三輪明神同体)」と書かれているのが理解できません。他の表記と比べて空きスペースが目立つので、赤枠内に、それを説明する文言があった可能性があります。
それは別として、式年造営で本殿と鳥居と建て替えられ、それを管理する社人「山御庵祝」がいたことがわかります。また、「二之御柱は僧侶の所役」とあるので、御射山祭といえども、神仏習合で行われていたことがわかります。
武井正弘著『年内神事次第旧記』にある「御手幣時申立」です。当時はこの祝詞を山御庵の前で奏上したのでしょう。
内容は、「どんな鹿でもいいから、とにかく捕らせて下さい」という切実な祝詞です。「諏訪の鹿は体に穴があって、矢が素通りしてしまう」そうで、『画詞』には「矢に当たるもの二、三に過ぎず」とあります。
これが「神様へのお願い」とは拍子抜けですが、8月1日に行われる憑(たのみ)神事に供える贄を捕るのが目的なので、二、三匹獲れば御狩は終わったそうです。しかし、それも難しかったので、このような「お願い」をしたのでしょう。
参集した武人は「狩りより団子」で、パレードで着飾った己を誇示し「飲み食い」することに熱中したのかもしれません。
江戸時代初期の作とされるこの絵図では、「三輪社・虚空蔵」の名称で二つの社殿が並立しています。
幕末の守矢文書に「御射山の地はかく御旧地なる故、御父上神大己貴命を祭り奉る」とあるので、前出の『上中下十三所造営』にある空白部に、本地仏の「十一面観音」が書いてあったことが考えられます。
江戸時代では、山御庵(御射山)は「虚空蔵」の名前の方が一般的でした。諏訪の各地にある道標に「右(左)・こくぞう(虚空蔵)」とあったり、御射山へ向かう道を「こくぞう道」とも呼びました。御射山祭には、国常立命の御魂代を乗せた神輿が原村の「虚空蔵社」や「虚空蔵菩薩碑」の前に立ち寄り、その前で拝礼をするのはこの名残です。
細川隼人著『富士見村誌』〔境内諸社の社名社格並び祭神〕から、関係するものを抜き出してみました(社格は略)。
御射山社 建御名方命・大己貴命・高志沼河姫命
大四御庵社 大己貴命・事代主命・建御名方命・下照姫命
虚空蔵社・国常立社 虚空蔵菩薩・国常立命
三輪社 大物主命
この構成(書き方)には、引っ掛かるものがあります。ただし、これが現在の“決まり”なので、そのママを列挙しました。
三輪社は、明治の“改革”で、御射山社を国常立社の横に設置したためかどうかは不明ですが、境内の端に追いやられた姿で鎮座しています。御射山には大物主命は必要ないと判断したのでしょうか。