細川隼人編『富士見村誌』から転載しました。
上代の交通
日本武尊の御通路の伝説を調べてみると、(中略) 旧落合村に入り、古宿(ふるやど)を通り、休戸に達し、御休になり、これから釜無川沿って長者・八瀬(やせ)・旧片瀬を経て…
鎌倉街道
諏訪の下蔦木で一所になって古宿に至り武智川に沿い、富士見の横吹を経て、木之間の観音坂を上がり、
何れも抜粋ですが、甲州街道より古い道に沿った場所に千鹿頭神社がある(または残っている)ことがわかります。また、横吹(新田)と休戸が合併前の旧村名であり、現在の大字(おおあざ)として残っていることを知りました。
「ここは休戸(やすみど)」の標識があります。この場所をベースに千鹿頭神社を探すことにしました。しかし、当てがないままの探索ですから、清酒「真澄」の宮坂醸造敷地の展示貨車2両・最終埋め立て処理場・二匹並んだ毛皮と骨だけになった獣の死骸・「栽培したワラビです。採らないでください」の看板が、求めぬ成果となりました。
ここでの幹線道路からは一つ下になる道沿いに、古家が二軒あることはわかっていました。無住のように見えたので除外したのですが、その確認だけでもと近づきました。奥の一軒が玄関を大開きにしています。気になる犬の吠え声も、在宅の証ではないかと期待が膨らみます。
「この人なら」というおばあさんが奥から顔を見せました。早速「千鹿頭神社は」と切り出すと、「ちかとうさんは…」と返ってきました。「雪の山」から入口がわかり、石灰と思われる「せっかい道に突き当たったら右に曲がる。すぐ上に上がる道がある。それが参道」と教えてくれました。別れ際の「お祭りは今でもありますか」との質問の答えは、「氏子がいないので正月にお参りするだけ」でした。
先ほどは横に見た花場の家々を、今は見下ろしています。一回は途中まで来て諦めたその先を明確な目的を持って登り続けると、話通りにダンプが行き交う道に突き当たりました。ホコリが収まるのを待ってから、やや右にずれている、さらに上に続く小道に踏み込みました。
すぐに「千鹿頭大明神」とある鳥居が見え、その先に、横一列に並んだ祠が見えました。遠目でも、「余所者(よそもの)が来る所じゃないよ」と拒絶するような暗さがあります。横吹とは全く趣を異にしていました。
右端に「平成五年南諏(なんす※南諏訪)衛生センター最終処分場建設に伴い川原休戸千鹿頭神社を原休戸千鹿頭神社境内に移転合祠する 平成五年十一月 休戸区」とある碑があります。何回か読み直して、現在自分が立っているのは「原休戸」の千鹿頭神社と理解できました。しかし、どれが河原休戸から移された祠なのかわかりません。
取りあえず、殴り書きのような書体で元号が彫ってある最大の祠に注目しました。しかし、「寛永」の下が読み取れません。反対側に廻ると干支の「丁丑」が読み取れますから、何かの手掛かりになりそうです。もう一つの祠は「享保八年(1723)・休戸村」とありました。
これで富士見の千鹿頭神社をカメラに収めることができましたが、なぜここに千鹿頭神が祀られているのかがわかりません。「北の松本市神田・林の千鹿頭神社に対し、南の守りを富士見の千鹿頭神で固めた」ということなのでしょうか。
帰り際に振り返ると、左前方の山の斜面が大きく崩れています。これが、20分前には知らなかった石灰採掘場でした。
自宅で「丁丑」を調べると寛永14年(1637)とわかり、『富士見村誌』に載っている「寛永十四年の祠」と一致しました。また、不明の文字は「拾四年」とわかりました。
後日、今井廣亀著『諏訪の石仏』で以下のような文を見つけました。
巻末を見ると「昭和46年発行」とあります。今でも白く残っていますから油性の絵の具でしょうか。
「休戸」は、「通行人が休憩する家」とあります。加々見一郎発行『高原の自然と文化』では、「原休戸は、明治30年頃他へ移りて今人なし。河原休戸は、ブラジル移住したりその後塚平へ移って一軒が残る。水カケ休戸は茅野市から移ってきた4軒が残る」とありました。この文から、休戸の集落が三ヶ所あったことがわかります。それぞれに千鹿頭神を祀っていたとすれば、千鹿頭神社が三社あった可能性がありますが…。
昭和36年発行の細川隼人編『富士見村誌』〔神社・仏閣〕にある千鹿頭神社です。
「休戸区には千鹿頭神社が二社あるが、現在は原千鹿頭社を祀っている」ということでしょう。富士見町がまだ富士見村であった昭和36年でも、すでに河原千鹿頭神社は実体が無かったことが窺えます。