岡谷市三沢区『三沢区誌「歴史編」三沢の歴史』〔信仰と歴史〕で、藤宮様を紹介しています。
・在所…川岸上2丁目5(成田町との境、旧道上の官林山の麓)
・勧請…不詳(およそ220年前頃、藤島神社を現在地に移祀と伝えられる)
由来は不詳だが、三沢区神社委員会がまとめた「熊野神社・各小宮に関する資料綴」には、次のように書かれている。文中の「(橋原区鎮座の洩矢神社に対応する)藤島(宮)様を移祀して藤宮様とした」が骨子でしょうか。それにしても、藤島神社には現在も4棟の祠が並んでいますから、「なぜ三つの神(霊)じゃダメなんですか」と、移祀した理由に疑問を感じてしまいます。
また、享保18年(1733)編纂『諏訪藩主手元絵図』には「公神(荒神)」が見られますから、天明との差50年も気になります。
私の素朴なツッコミは別として、今から5年前となる発刊時の『三沢の歴史』を読み、この「藤宮」の存在は知っていました。その時は「藤宮は、藤島神社の分社」と理解したので、それ以上の深追いはしませんでした。
「雪が降れば家に籠もる」暮らしをしていますが、ここに来て(緊急時に備えて)スタッドレスタイヤに替えました。思いついて、その慣らしとバッテリーの充電を兼ねて岡谷市まで走ることにしました。最近、ストリートビューで、藤宮の鎮座地に目星が付いていたからです。
『三沢の歴史』には、藤宮の背景にコンクリートの擁壁とフェンスが写っています。同じ景観を求めて旧街道を歩くと、その擁壁は急傾斜地の崩壊を防ぐものでした。その始まりから上を仰ぐと鳥居が見え「あれが藤宮だ」と確信しましたが、そこへ向かう道がありません。
少し進んで現れた石段を登ると擁壁を越すことができましたが、道がありません。仕方なく山と擁壁との間にある隙間を強引に進み、突き当たりではコンクリートで固めた斜面をよじ登り、現れたフェンスを跨ぐと正規の参道に合流できました。帰りは、「周辺の住民しか知らないだろう」という1m巾の道を使ったのは言うまでもありません。
斜面の二方がフェンスに囲われたのが、藤宮の境内でした。〔藤宮様全景〕とある写真と同じであることを確認してから川岸(旧川岸村)方面を撮ったのが、「私の藤宮様全景」です。
藤宮の背後にあるソヨゴ(冬青)が赤い実をたくさん付けていて、今の季節を感じます。諏訪では普通に見られる灌木ですが、榊の代わりに使われるので、この場所に植えたのではと想像してみました。
祠には銘がありません。巻(まき※同族)の祠と違いますから、三沢区神社委員会の調査があって、さらに小宮の御柱祭があることで、このこざっぱりと整備された景観があるのでしょう。
祠前から、葉が落ちているので、対岸の洩矢神社が見通せます。しかし写真では枝しか写っていない状況となるので、下のフェンスまで降りて撮ったものを載せました。
洩矢神社は杜で覆われており、その前には建物があるので、参道を確認することはできませんでした。
『三沢の歴史』では、藤宮について「藤島神社を現在地に移祀と伝えられる」と書いています。その一方で「現在も荒神社(古墳)に藤島社本殿が鎮座されていることから、移祀というより分祀し勧請としたと考えるほうがよいと思われる」とまとめています。
しかし、三沢の鎮守社「熊野神社(十五社神社)」と違い、小祠の藤島神社を分祀する理由が見当たりません。
『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に、以下の記述があります。
一 橋原村守屋社三澤村荒神社元天龍川端ニ而(して)大木え藤からまり茂盛して日中も其下闇夜之如く、
客来様の節明神願候得は(そうらえば)朱椀其外種々之器物御貸し被下(くだされ)、或時椀かさ一つ紛失損し候哉、御詫不致(いたさず)御返納致し候處、其後御立腹哉、其事無と云、両村両社共山際え引今之所勧請す、…
ここでは「守矢社・荒神社」の名称です。しかし、一般に言われている「洩矢神社・藤島神社」に置き換えると、「両社共山際え引(退く)」から、「荒神塚古墳の近くにあった藤島神社が高台に移遷したのが現在の藤宮」ということになります。これは、『三沢の歴史』でも「藤島(宮)様を移祀して藤宮様とした」と書いていますから、納得できます。
諏訪では、神社は移転しても、旧跡地に再び同じ祭神を祀ることはよくあります。私は、それが藤島神社と考えました。