2017年に、『花岡区誌』にヒントを得て『洩矢神社は花岡村から移遷』をアップしました。今回は、その補強版です。
『花岡区誌』は、「花岡姓を名乗る一軒が橋原へ移った。その時洩矢の神を氏の神としてお連れ申した。その社の跡へ山の神を祀って松の木を植えた」と書いています。
『諏訪藩主手元絵図』(以下、『手元絵図』)には、「その社の跡に(新たに)祀った山の神」を「古山神」として描いています。ややこしいのですが、それは置いて、「古山神」の上部(南側)に「京塚原」を書いています。
今回『岡谷市字境図』を閲覧する機会があったので、「京塚原」を調べてみました。
『手元絵図』の表記から、今で言う大字(おおあざ)の認識でしたが、小字で、割と狭い範囲でした。その境を赤線でなぞり、前出の古山神がある場所を印したのが、上図です。
同じく、『手元絵図』の〔橋原村〕です。絵図なので正確には示せませんが、洩矢神社の関連史跡として「洩矢大神御舊趾碑」がある場所を加えてみました。
「守矢大明神」が、現在の洩矢神社です。その右(南西側)にも「経塚原」があるのは知っていましたが、改めて注視すると、茶色の線で囲っています。
『手元絵図』での茶線は主として村境ですが、寺社の境内・飛地・田畑の境としても使われています。橋原村ではここだけなので、「経塚原」は特別な土地とすることができます。
そうなると、前出の「「花岡姓を…」から、 『手元絵図』が編纂された時代では花岡村の飛地だった可能性が出てきます。
橋原村の「経塚原」に、洩矢大神御舊趾碑を示してみました。
こちらも小字内にありますから、「洩矢の神を氏の神としてお連れ申した」場所がここであることを考えてしまいます。
とにかく、「花岡氏は、橋原村に洩矢の神を遷して開墾を始めた。その将来に目鼻がついたので、生まれ育った土地と同じ“経塚原”を命名した」とすれば、隣接した村に同じ地名があることに不思議は生じません。
移住した時代は「明暦のころ」とあるので、御舊趾碑が建立された明治初頭では尾ヒレが付いて、『遷座記念碑』に書かれた「洩矢大神の住居跡を祀る古社」として伝わっていたことは考えられます。「神話」から「その地」を特定するのは無理というものですから、これまでに書いたものをまとめて「洩矢大神御舊趾は、花岡氏の氏神社跡」としてみました。
洩矢神社について、何回も『手元絵図』を参照してきました。その中で、橋原村は「風変わりな村・特殊な村」と思うようになりました。
天竜川の流域に沿って並ぶ旧村は、右岸に三沢村・新倉村。左岸には橋原村・鮎沢村・駒沢村があります。各村絵図には天竜川が描かれていますが、その描き方と書き方に注目しました。
橋原村 三沢・新倉・駒沢・鮎沢の各村は天竜川を自村の中に描いていますが、橋原村は川の半分のみで、しかも「北ノ境川」と書き込んでいます。一般的には「河川の中央を境」としますが、それを「北ノ境は川」と読めば「橋原村の境は岸辺」となります。
三沢村 その橋原村の対岸にある三沢村は、「天竜三沢分」と書いています。「天竜川は三沢村のもの」と解釈できますから、「島」も三沢村の持ち分となります。
三沢河原 前出の字界図「橋原村の経塚原」の上に「三沢河原車田」があります。因みに、「車田」は、水車で揚水した田のことです。
その「三沢河原車田」が『手元絵図』の「島」に相当するとなれば、三沢村に関しては天竜川全域を自村のものとすることの裏打ちとなります。
突拍子もない話と思えますが、次のように説明できます。かつての天竜川は川幅の分だけ橋原村に食い込んで流れていた。その後の氾濫で今のような流路になったものの、両村の境は旧態依然として残った。
「もしかして」と、県立歴史館蔵『三澤村(図) 諏訪郡一村限絵図』(明治7年)で確認したら、飛地の「三沢河原」がありました。
ただし、明治7年に五村が合併して「川岸村」になり、現在は岡谷市川岸ですから、この飛地について「どうのこうの」と騒ぐのは私だけでしょう。
ここで気が付いたのが、橋原村の用水路です。天竜川から直接揚水する権利を持たないために、上流の花岡村境から引き込んだとする考えが浮かびました。果たして…。
以前より温めていたのが、この標題です。今迄は『手元絵図』の「古宮跡」を洩矢神社の旧跡地としてきましたが、ここまでに書いたものを踏まえると、それを藤島神社の古宮とすることができます。
同じ村内ですから、あり得ない「藤が絡み合う」話も説明できます。また、『川岸村誌 続』が「祭神は洩矢神で、合殿に藤島明神を祀る」、洩矢神社の拝殿に懸かる『洩矢神社由緒』の「祭神 洩矢神・藤島神」も素直に頷くことができるようになります。
しかし、図書館で閲覧できる本や文献には、似たような話でさえも見つけることができません。結局は「ここだけの話」に落ち着きそうですが、近い将来「これが定説」になる日が…。