長野県『信州デジ蔵』に、解題に「明治初年各村から県へ提出した村誌に添えて提出した絵図の写し」とある『諏訪郡古跡名勝絵図(写)』があります。その中から、〔富士見村〕を転載しました。
私は、絵だけを見て、すぐに御射山祭を描写したものとわかりました。右の社殿が御射山社であり、左に連なるのが五官の穂屋と理解したからです。
そうして見ると、赤穂が印象的なススキが各所に、これでもかと描き込んであるのも「もっともだ」と頷けました。
その各部を順に眺めると、何と「富士山」が描かれています。それでも唐突感を覚えないのは、その場所に「浅間社」があるのを知っていたからです。
代わって、「村誌に添えて」とあるその『富士見村誌 』を閲覧すると、〔御射山 穂屋のとも云う〕で始まる一文がありました。
富士見村は「町」と変わりましたが、不変の名称通り、御射山でも富士山が見えたことが確実となりましたが…。
浅間社が正面を御射山社の境内に向けていたことを思い返すと、絵図にある富士山から、その後方に富士山が見える可能性が出てきます。しかし、何回も現地を訪れていますが、「御射山社から富士山」を意識したことは一度もありません。
そこで、Googleマップの3D画像を回転させると、御射山社の境内に対して斜めとなる浅間社の「鳥居−石祠」ラインが、富士山を望むラインと一致します。そうなれば、後は現地で確認するしかありません。
まだ凍土という境内で、ここに載せる写真を確保しました。あくまで推定ですが、以下に五棟の穂屋が建てられた場所を半透明で表してみました。ただし、(写真ではなく)絵図にある石碑を基準にすれば、道の右側になるかもしれません。
浅間社はこの写真では境外に当たるので見えませんが、凡その場所を□で示してみました。
浅間社です。配水池の施設が写りますが、背後が富士山の方向として正面から撮ってみました。
浅間社の背後は見通しが利きません。知る人ぞ知る堆肥の大山もあるので、さらに100mばかり離れた右方に移動しました。しかし、その方向は小尾根に阻まれています。葉が落ちている絶好の時期ですが、甲斐駒ヶ岳も霞んでいるという空では、ズーム最大で撮って枝の間を丹念に探すという手が使えません。これが現状として、思い切りよく諦めました。何しろ、風が冷たくて…。
再び、浅間社です。「宝永五年(1708)」と「御射山神戸村住藤森某」が読めます。富士山の大噴火が前年ですから、その関係で建てられたと想像してしまいます。
因みに、御射山祭では諏訪大社の神職と関係者が境内の諸社を巡拝しますが、浅間社はその最後に含まれています。
絵図の題が御射山祭ではなく〔富士見村〕であるのに不思議さを感じていました。
絵ばかり眺めていたので冒頭にある文言を読んでみると、「雲散るや/穂屋の薄の/刈り残し」とある芭蕉の俳句でした。その続きも御射山祭に関連したものですから、御射山祭の景を添えたものと合点できました。
実は、絵図の角張った石碑が宗良親王の歌碑に酷似しているので、建立年の大正との整合性に悩んでいました。
自宅から御射山社が近いので、もう一つの奥まった場所にある石碑の前に立つと「蕉翁」が読め、『諏訪郡古跡名勝絵図』〔富士見村〕のすべてに納得ができました。