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諏訪照雲頼重の供養塔 諏訪大社上社前宮

 標題は、「安国寺史友会」が設置した案内板の名称です。
諏訪照雲頼重の供養塔
鶏冠社へ向かう諏訪大社神職(左は故平林宮司)

 古い写真になりますが、平成19年12月22日に行われた「鶏冠社祭」の一コマです。左に写っているのが「諏訪照雲頼重の供養塔」の覆屋ですから、満を持して、アーカイブからこの場所へ躍り出たことになります。


『前宮神殿址と照雲の碑』 '23.5.14

 長野県文化財保護協会『長野県史蹟名勝天然記念物調査報告 第五巻』に、昭和十一年の調査報告『前宮神殿址と照雲の碑』があります。関係する部分を抜粋したものを、常用漢字に替えて転載しました。

調査委員 今井真樹 

保存の要旨
 此地は往古以来諏訪上社大祝の居館なりしが、文明十五年正月八日の政変以来掃地となりて、神殿(ごうどの)は他に移転せられたり。その後多少地形に変遷ありしものの如くなれども、前年山寄りの一地点より照雲の墓表と称する五輪塔発掘せられてここに現存す。

諏訪照雲頼重の供養塔
 「照雲の碑(大正八年撮影)」

 照雲は諏訪上社祝三河守諏訪頼重の事にして、父祖以来鎌倉に出仕して、北條氏の為に忠節を励みしが、建武二年八月北條時行を擁して、鎌倉大御堂に敗死したる人なり。
 されば当所は単に古神殿遺蹟としてのみならず、当時鎌倉に於ける諏訪氏の発祥地としても保存の要あり。

五輪塔を頼重の墓表と決定するには尚多少研究の余地を存ずといえども、同時に発掘せられたる石造多宝塔残欠等と共に正に鎌倉時代の遺物たるを失はず。
 単に型式上より見るも貴重の史料たれば前宮神殿址と共にこれをも保存す。

(中略)

照雲の五輪(※ママ)と石造多宝塔殘欠
  明治(の地租?)改正後前宮境内は一時大に荒廃し、村図に依る社地(地番は省略)の如きは既に分割貸与地となしたり。此頃神殿旧址(地番略)の一地点を発掘して得たるものがこの五輪塔及石造多宝塔残欠等にして五輪塔の火部には照雲と刻して金を鋏めありしという。

結語
 前宮神殿の位置埋もれて世に知られざるや久し。会(長野県文化財保護協会)宮地博士より御厩址につき質疑あり。為に二、三の古老を物色してその位置を尋求せしに、一老翁あり。よく附近の地形地字(あざ)を指して、言下にその位置を知るを得たり。
 更に次を以て一巡するに、鶏冠社入口の畑を指して大祝樣御屋敷址なりと云う。此地かつて照雲の碑発掘せられて今現に安置せり。於是(ここにおいて)古記を按ずるに老翁の言と符節を合するが如く、多年の疑雲一掃せり。翁名は小海亀吉。今年七十七歳にして、父祖以来地在住者なり。而して大正二年八十六才にて歿せし父佐吉より父祖の物語なりとて聞かされたる話なりと云う。もしこの調査遅るるか又は不幸にして此翁物語前に物故したらんには又此由緒の地世に出(い)でずして終わりしを。

(後略)
諏訪照雲頼重の供養塔(五輪塔)
諏訪照雲五輪塔発掘地
「宮川村前宮附近之村図(部分)」

 「鶏冠社入口の畑から五輪塔が出てきた」ということなので、〔宮川村前宮附近之村図〕に図示された「照雲五輪塔発掘地」を写真に重ねてみました。神事帰りの神職を中央寄りに入れた構図が役に立ちました。


照雲の五輪塔

諏訪照雲頼重の五輪塔
「向て左照雲の碑右五輪石造多宝塔層塔寄せ積」

 前書『前宮神殿址と照雲の碑』に載る写真ですが、キャプションが変なので、「左から照雲の碑・五輪石造多宝塔・層塔寄せ積」と書き替えてみました。
 それでもおかしいので、「左から照雲の五輪塔・五輪塔・層塔寄せ積」とするのが“正”かもしれません。ただし、書名が『前宮神殿址と照雲の碑』で、項目も〔照雲の五輪と石造多宝塔殘欠〕と書いているので、何とも…。でも、やっぱり、私には中央の石造物は多宝塔には見えません。

「石造多宝塔残欠」

 文末の[参考資料]に「宮川村前宮の石造多宝塔残欠(佛教美術八号 天沼博士の論文参照)」がありました。

昭和十三年八月長野県諏訪郡宮川村で、凡(およそ)鎌倉時代と認めらるる小型の残欠を見た時、信濃では恐らくこれ一つであろう、大切に保存せねばならない、と同行の人々に話したのであった。

 先生は翌年八月小県(ちいさがた)の別所で常楽寺境内のもの及西島義雅氏裏庭のものを見られその数の多いのに驚かれ、諏訪の多宝塔が珍品であったと云った事について訂正せられて居るが、假令(けりょう※たとえ)残欠ながら寄せ集めた五輪の風空部。多宝塔。層塔共に何れも鎌倉時代のもので余りに普通のものでない事丈(ことだけ)は事実である。

 今井真樹さんは、天沼博士の論文を尊重して“多宝塔”と書いたと推測してみました。