■ 資料では「千野氏(茅野氏)」の表記ですが、鳥居に「奉献 茅野氏」とあるので「茅野氏(千野氏)」としました。
前宮の旧参道「中小路」沿いに、柏手社(かしわでしゃ)があります。石祠の正面を前にして立つと、左後方に、斜面に石垣を築いて平地をなした更地があります。石垣の中央寄りには宅地で見られる石段があるので、かつては家が何軒か建っていたことがわかります。
その前から奥に続く小道を伝うと、「祠が三棟並んだ神社」があることは知っていました。
去年、安国寺区誌作成委員会『安国寺区誌』を読む中で、添付の写真が「祠が三棟並んだ神社」と同じものであることに気が付きました。改めて読み直すと、諏訪神社上社外記太夫家の祝殿社でした。
「旧屋敷の南隅に祀る神社」から、冒頭の土地に、かつては外記太夫家の屋敷があったことがわかります。諏訪神社の多くの社家は明治期の“社変”で諏訪を離れたそうですから、空き屋が年とともに老朽化し、取り壊しから更地になったのでしょう。「うーん、今はただ風が吹いているだけか」と、どこかで聞いたような詞がイメージとなって頭を過(よ)ぎりました。
外記太夫家の祝殿社については前記以上の情報が得られないので「祝殿社四社」で検索すると、意外に多く表示します。しかし、何れも“実”がないデータベース的な内容です。『長野県神社庁』のサイトで確認すると「祝殿社四社 茅野市宮川字樋沢(ひざわ)2560」が載っているので、これをベース(情報源)にしたものと納得できました。
「これは便利」と喜んではいけません。表示する地図を確認すると、大字(おおあざ)「宮川」の不特定の場所に所在地を示しています。小字(こあざ)や番地を無視しているので、これを信用すると、宮川の各所をウロウロすることになります。以上、紹介文が乏しいので、余分なことを書いてしまいました。
境内から前宮方面を眺めると、柏手社背後の大ケヤキが見えます。柏手社の案内板に「前宮の神前に供えるものや饗宴の膳部を調理したところと思われる」とあるので、外記太夫の職種から見て、前宮の神饌は屋敷の一角で調えられたのかもしれません。
現在は社殿が三棟という構成ですから、ここに一つの疑問が持ち上がります。転載文からは、中央のやや大きな社殿に四柱(神)を合祀したと理解できますから、両脇の祠の正体は何だろうということになります。手前は、その色から稲荷社とも思えますが。
千野廣著『千野(茅野)氏概説』に、これについて“何か”書いてあったことを思い出しました。図書館に出向いて、〔52 茅野(千野)氏の新居小町屋(第四居館)〕を転載しました。
センテンスが長くて読み疲れしましたが、左・右の祠が信徒一同・光応家とわかりました。これで、『安国寺区誌』の記述は不適切、というか、説明不足による意味不明になっていたことが判明しました。
著者の千野廣さんは千葉県市原市在住ということですが、よくもこれだけ調べたものと感服しました。