平成19年12月23日。灯籠の写真を撮ろうと下社春宮に寄ると、社殿修復工事に合わせて瑞垣内の整備が行われていました。
「これは、またとないチャンス」と、開いていた門から撮ったのがこの写真です。因みに、中央の格子戸が幣殿の裏側となります。
今回は古い写真になりますが、たまたま写っていた不明門の写真を活用することにしました。
その門に丸棒状のバーが掛けられていますが、これが、不明門を「不明(開)」たらしめている“出入禁止の棒”でしょう。しかし、丁度足場の単管と控え柱の陰になっており、その仕組み(取り付け方)は見えません。
一方の開放されている門ですが、古絵図から「春宮の不明門は左側」とわかっているので、こちらは通常の造りと考えました。
宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録に、『下諏方大明神春秋両社之絵図』があります。ここでは、春社(春宮)の瑞垣内を拡大したものを転載しました。
このサイズでは文字が不鮮明なので、部分拡大したものを以下に添付しました。
「板塀で描かれていますが、現在は屋根付きの塀であることがわかります」はともかく、改めて「宝殿を囲む瑞垣(塀)の左側にあるのが不明門です」と説明を入れました。
春社と対になる秋社を見ると、不明門は右側にあります。そのため、この門は「宝殿の左側」という法則は存在しないことになります。春宮と秋宮の間は聖域とされているので、外側に向けて不明門を設置したのでしょう。
絵図では以上のように確認できますが、「…此時不明門開…」のような記述を古文献に見ることはできません。下社では古文書の多くが焼失したこともありますが、その門が開けられるような変事は無かったということでしょう。
ここで気になるのが、上社本宮の不明門です。古絵図では幣拝殿の右側にあるのがわかっていますが、現在は退転しているので、その場所と形状の詳細は不明です。
江戸時代初期の『上社古図』では、こちらは外垣ですが、その塀と一体となって描かれています。また、四之御柱の外側なので、かなり奥ということになります。
御柱の位置が現在と変わっていないとすれば、「山際ギリギリ」と言った場所です。
江戸時代中期の『諏訪藩主手元絵図』では、門と垣の一部だけを、こちらもかなり山側に描いています。
かつての不明門は、式年造営で更新されました。しかし、元々は「まず使うことはない」という建造物ですから、外垣を廃止して門のみを造営→その後に全廃という流れに至ったと思われます。
これまでに挙げたものをまとめると、
・下社──宝殿を囲む瑞垣(内垣)の側面
・上社──幣拝殿を囲む玉垣(外垣)の側面(宝殿のはるか前方)
という違いがあります。これを言い替えると、
・下社は洗練された(綿密に設計された)社殿配置
・上社は取って付けたかのような(徐々に整っていった)社殿配置
となるでしょうか。とにかく、上社は、下社から宝殿や御柱を導入した(パクった)とも思えるバラバラ感があります。それが、いかにも諏訪生え抜きの神社らしくて…。