青塚古墳と青塚社 下諏訪町立町 '05.8.7
国土交通省『国土画像情報』昭和23年9月2日
諏訪大社下社の秋宮から春宮まで歩いてみよう、と思い立ちました。ネット地図を開いて秋宮から旧中仙道沿いを目で追うと、何と、秋宮の一部とも言えそうな位置に「青塚古墳」があります。
実は、「青塚古墳は諏訪で唯一の前方後円墳」と知識はあっても、どこにあるのか知りませんでした。そこで…。
青塚古墳
後円部から前方部の眺め('07.7.8)
地図上では青塚古墳の場所を知っていますから、近づくまでもなく、屋根の上に見通せる大きな緑塊がその古墳と分かりました。墳丘を一周すると、長い年月の間に宅地などで圧迫され続けたのか、ほぼ前方後方墳になっていました。
「県史跡」とある長野県教育委員会が設置した案内板には、「7m余ある横穴式石室をもつこの青塚古墳は、主軸長67m・前方部幅43m・後円部径34m・高さは何れも8m」とあります。畿内の大型古墳に比べれば子供だましのようなものですが、後円部の墳頂に立ってカメラを向けると、ワイド側一杯でも前方部を収め切ることができませんでした。
前方部から後円部を撮る
この古墳の所有者は諏訪大社になっています。付近には、「王」が「青」に転じたという青塚の他に大型古墳はありません。そのため、このサイトとすれば、極近の秋宮との結びつきに飛びつくのは自然の流れです。6世紀後半から末という築造時期に、中央(畿内)から派遣され、後に下諏訪神社の大祝に就く「金刺氏」祖先の墓と断定してみました…。
古書に見る青塚古墳
幕末の書物である、勝田九一郎正履著『洲羽かのこ』から転載しました。原文の表現を損ねない程度に、現代かな漢字に直してあります。
王墳の事
今、下諏訪立町の裏田畝に土人青塚と言う古墳あり。上には樌
(欅?)の類生い茂り、恰
(あたか)も小山の如く見ゆる也。心ある人ありて古墳と思う人もあり。然れども、定かに考えし人もなし。
近頃上州辺の歌よみ来り、是ぞ正しく大明神
(※建御名方命)の陵墓ならんと言いしより、社人も一同して此地所町人の持地にて有しを十五金
(両?)出し購
(あがな)いしと言う。予、去りし年、下の諏訪に至り此事を言出し人ありて論弁せしより、あえて我大明神の陵墓と言うは止みぬ。
昔、金刺親王わが国に下り給いしが、其子孫の王此地に止りし給い君の陵墓ならんか。されど其封域
(ほういき)のさま親王の葬式と思わる。臣下の墓と思われず。されは親王の墳墓にや。いづれ、いにしへ
(古)よりおうづか
(王塚)と言いしを誤りてあおづか
(青塚)呼びなしけんにや。おう・あお俗訓近きより訛
(なま)れるならん。
下の宮
(※下社)大祝は先に言える如く金刺姓也。もしくは其親王の御子孫ならん。されば大祝家盛
(さかん)なりしうちは祭祀もおこたらず、祖先の墳としてかしづきしことにぞあらん。然るに大祝家滅亡して後は誰伝える人もなく、今は社司の輩に至りて上に言える如く弁
(わきま)えざる事に成りし、嘆きても余りあり。
今年
丁巳初夏、穢れし事
(※石室に変死者があった)ありとて土をうがち取捨つるとて、土中より埴人形四尺余りなる形は甲胃を帯
(おび)せしようなるを堀出しけるに、心ある人なくて、その図も写さずして又土中に埋めしと言う。王墳なる事著
(いちじる)し。此大祝家は大家にて勢ありしが武田氏に滅ぼされしや。又其已前
(いぜん)国族に滅ぼされしにや未詳。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第四巻』
ここに、甲冑をつけた武人の埴輪が出土したことが書かれています。
青塚古墳と青塚社
古墳くびれ部にある「青塚社」
青塚古墳の前方部と後円部の間に、塚の名前をとった「青塚社」があります。諏訪大社下社の摂社ですが、学術的には被葬者が不明なので、“馬の骨”を祀っているとも言えそうです。
天皇陵に比定されている畿内の超大型古墳は、宮内庁が管理し鳥居が立っています。一方、青塚は、諏訪最大であっても「陵」に比べれば超小型になってしまいますが、そこは諏訪の地にある特権で、天皇陵には無い御柱が建てられています(と、持ち上げてみましたが…)。
小宮一覧表によると、祭神名欄は空白で、崇敬者・氏子は(下諏訪町の)「立町」になっていました。
日本最古の大塚大明神位碑
青塚社入口に、
(大塚大明神では)“日本最古”という「大塚大明神位」の石碑があります。上写真では、中央の石段右にあるのがその石碑です。以下のページで紹介していますからご覧になって下さい。