専用の参道があります。その説明に「秋宮駐車場のトイレを右に見て」というのが(神様に対して)心苦しいのですが、焦点を合わせないようにして石段を上がります。鳥居をくぐると、前方に見えるのが八幡社です。
右には恵比寿社もあるこの地は、こんもりとした丘になっています。そのため、足元だけを見ると秋宮の境内にいるとは思えないほどです。目線を上げると駐車場に並んだバスのルーフとその先に神楽殿が見え、同時に、サイレントだった映像に突然音声が乗ったかのようにざわめきが流れているのに気が付きます。ここまで足を延ばす人は皆無で、今の季節では一塩寒さが身に染みます。
この辺りの地理には全く不案内です。諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項・5』〔霞城址〕の冒頭には、
とあります。ここが(八幡社があるから)八幡森であるのは順当ですが、それより、地続きにあるホテル「山王閣」がなぜ「山王」なのかの由来が分かりました。
八幡社は、その鎮座地から下社秋宮の境内社と思っていました。しかし、下諏訪町字(あざ)「八幡鎮座」とあります。字とあるからにはどの範囲が「八幡」だろうと探してみました。下の駐車場と道を挟んだ土産物店が「専女(とうめ)八幡」、国道から秋宮へ続く坂道が「八幡坂」、資源物収集場所が「山王閣階段前八幡社」など、芋づる式とは言えませんが幾つか出てきました。
諏訪大社社務所『諏訪大社復興記』では、境外末社「八幡社」の祭神は誉田別尊・息長足姫命・玉依姫命とあります。その次に続く末社が「天満宮」「貴船社」「御室社」ですが、いずれも八幡社に合祀とあります。「そんなに詰め込んでもいいの」と余りの大所帯に心配、というか不自然さを感じます。
手掛かりを求めて『諏訪藩主手元絵図』の〔久保村〕をルーペで探すと、下社神宮寺の広大な寺域に「千手堂」があります。その南、千手堂へ続く参道の左右に「貴船」と「天神(=天満)」が見つかりました。これに間違いないでしょう。
明治の廃仏毀釈で神宮寺の伽藍は全て取り壊されました。貴船社と天神社はその煽りを受けて、“取りあえず”一番近い八幡社に居候(いそうろう)という形で身を寄せたのでしょう。140年経ってもマイ社殿が建てられることはなく、「合祀」と言えば聞こえがよいのですが、遠慮して隅で小さくなっていると思われます。
残る「御室社」ですが、武居鎮座の境外摂社・外御玉戸社近くにある「八坂社」が、かつての御室社だそうです。どのような経緯で八幡社に合祀されたのか興味のあるところですが、現在資料を収集中です。