宮坂喜十著『諏訪大神の信仰』に、〔諏訪神社の風の祝〕の章があります。金刺(今井)信古(1818−1859)が著した『款冬園(ふきえん)』の、
を取りあげて、諏訪の風神信仰を考察しています。ここでは「御室社」に関する部分を紹介します。
『長野県町村誌』は明治14年刊行とありますから、その頃は、状態はともあれ「御室社」は健在だったと思われます。
県立歴史館蔵『国幣中社諏訪神社下社絵図』から、御室社に関係する部分を転載しました。
右上が「武居祝の神殿(ごうどの・屋敷)」です。その前に「御室社」があり、左方には「御玉戸」も描かれています。
宮坂喜十さんは「御室社は、すでに諏訪大社の手を離れ…」と書いていますが、その御室社は秋宮の八幡社に合祀され、現在も諏訪大社が祭祀を行っています。
写真は、文中に出る八坂社祭です。地元である武居区の役員(武居衆)が参列します。現在は一ヵ月遅れとなる2月1日に、内・外御玉戸社祭に引き続いて行われていますが、「幣帛二つ」は確認していません。
次の〔源流は武居の御室〕では、以下のように書いています。
犬射馬場跡の一画にお地蔵様があるのを知っていたので、『款冬園』に見える「あごなし地蔵」ではないかと訪ねてみました。ところが、赤屋根の地蔵堂の前に立つと、「あごなし地蔵」ではなく「愛宕地蔵尊」でした。しかたなく馬場跡に沿って「あごなし」を探しましたが、お地蔵様はここだけでした。
下諏訪町誌民俗編編纂委員会『下諏訪町誌 民俗編』〔第十三章 伝説と昔話〕から転載しました。
ここで、『款冬園』に出る「あごなし地蔵」が「隠岐のあごなし地蔵」であることが確定しました。また、この「隠岐」は、愛宕の誤伝という可能性が高くなりました。
諏訪史談会が調査した「武居祝家遺跡略図」では、表門の前に小さな鳥居が二つ記入してあります。現在の八坂社と、『国幣中社諏訪神社下社絵図』に書かれた御室社でしょう。この場所であれば、武居祝がここで風鎮め神事を行ったことになります。そうなると、『款冬園』にある「風の祝屋敷は流鏑馬馬場の内側」と矛盾します。
これは「中世に、金刺大祝家が断絶して武居祝が立ったため」で、武居祝(=風祝)が、流鏑馬(犬射)馬場跡にあった屋敷から現在地に移ったと説明がつきます。
秋宮の一之鳥居を正面にすると、右手が小高い丘になっていることがわかります。ここに鎮座しているのが境外末社の「八幡社」です。
現在、「御室社」はこの八幡社に合祀されています。『長野県町村誌』の記述から、明治14年以降に、武居の地からここに御室社を引き揚げたことがわかります。
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』で、「風鎮め・風無」の異称とも言われる「笠無」と「御室」拾ってみました。
書留帳の一部紛失や記帳・書き写し漏れも考えられます。そのため、気が付いたことを項目として並べるだけとしました。記述順から、
となります。
「延宝7年(1679)幕府よりの命に依り書き上げたるものの控にして…」と解説がある文書です。
一、御室社に於いて、三月丑(中略)御供を備える、大祝・五官祝神事を勤める、伶人神楽を奏す、
時代によって大きく異なりますから、「風の祝=武居祝」に関連する事物を紹介だけに留めました。終わりに、『款冬園』の「款冬」って何だと調べると、「かんどう」とも読み、(1)フキの異名 (2)ヤマブキ(山蕗)の異名 (3)ツワブキの異名、とありました。