※長野県神社庁では「霧ケ峯本御射山神社」と表記しています。すでに諏訪大社の手を離れているので“神社”ということになりますが、このサイトでは、諏訪大社の旧摂社という関係から(便宜上)「旧御射山社」を用いています。
広大な凹地の底では不安を感じるのか、やや退いたかのような斜面に旧御射山社がありました。決して低くはないのですが、この広大な草原の中にあっては灌木になってしまう一群の木々が、まるで将棋の駒のように周囲をガードしています。
諏訪大社では、御射山社には御柱を建てません※。しかし、写真のように御柱が…。これは、江戸時代に諸般の事情で御射山社が里に下りてしまったことにあります。現在は、建御名方命を祀る「霧ヶ峰本御射山神社」として上桑原牧野組合が管理しています。そのためでしょう。「やはり御柱がなくては淋しい」ということになってしまいました。余談ですが、諏訪人はとにかく「御柱」が好きで、市役所や警察署・病院・お寺なども祠があれば御柱を建ててしまいます。
「御柱」はさておき、「下社の旧御射山社を紹介するからには自分の目で」ということで、レンゲツツジが見頃という草原の中に一人立ちました。所々切れている記憶の糸を修復しながらたぐると、初めて訪れたときは、競技場跡のシンボルともいえる「土壇」だけに目を向けていました。旧御射山社の存在には全く興味がなかったからです。そのため、目の前の旧御射山社は“初見”ということになります。
さて、霧ヶ峰まで来て、『旧御射山社の写真』だけを撮って「ハイさようなら」はかなり贅沢な休日の過ごし方と言えそうです。これも、思い立ったらいつでも、という地元の特権でしょうか。それでも、このまま帰るのも何だと桟敷(土壇)の最上部まで登ることにしました。
(上写真右上の)“森林限界”に沿って登ると、食べ頃のワラビが…。しかし、ここは牧野組合の「私有地」なので山菜類の採取は禁じられています。最上部の桟敷跡から見下ろすと、下からはそれなりに見えた段(壇)の形状が明確ではありません。代わって大型シダ類の帯が縞目に広がっています。その植生の境目が壇を縁取っているように見えました。
遠国から遥々来た武人達が神事を見守る姿を思い浮かべようとしました。しかし、草深く広がる「強者(兵)どもが夢の跡」は余りにも大自然そのもので、改めて霧ヶ峰高原の一画に自分が立っているのを認識できただけでした。蟻のような単独縦走者が、旧御射山社の横を立ち止まることも仰ぎ見ることもなく横切っています。その姿が視界から消えたのを確認してから、レンゲツツジの群落の間を縫うようにして戻りました。
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史上巻』〔古代の集落と生活〕から、「霧ヶ峰御射山遺跡の発掘」の一部を転載しました。
戦国時代の混乱で諏訪神社の祭祀が衰退したために、里から遠く離れた地で行う神事の維持が困難になったのでしょう。
次に、下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』から〔下社の祭祀〕の一部を抜粋しました。
ここに出る「永禄年中」から、1570年以前までは御射山祭が行われていたことになります。
以上、新旧の文献を、二例だけですが挙げてみました。この中で、私が今迄に書いてきた「桟敷」が、所謂(いわゆる)「さじき」とは違うものであることに気が付きました。どうも観覧用に造られたものではなさそうです。
井出道貞が天保5年にまとめた『信濃奇勝録』にある〔下諏方舊御射山圖武居祝家蔵本写〕の一部を、着色して転載しました。
この絵図には、各所に「◯◯桟鋪(さじき)」が書かれています。この表記が今で言う「桟敷(観覧席)」と混同され、一般に「霧ヶ峰の御射山に大競技場があった」と広まった可能性があります。
ただし、この絵図の名称は「“旧”御射山図」です。御射山社が武居入に移った後に描かれたことになりますから、信憑性は余りないかもしれません。
今はどうなのかと土壇の陰影がハッキリと見える航空写真を参照すると、林道と登山道が絵図の道と同じように見えます。
そこで、道が一目でわかる地図を用意して65度回転させると、「よう」ではなく、まったく同じです。
「ならば」と、共通する林道と破線の山道(登山道)を茶色に塗り、あくまで推定ですが、古図の名称も書き入れてみました。
絵図では石垣状に描かれた「御供所・神楽所」に注目すると、対面する場所が(絵図の名称から)大祝が御射山の神々と宿泊する仮屋(穂屋)ですから、背後の「甲州侍桟敷」が特別席となり、武田家が最強だった時代を記録した絵図と考えることができます。
改めて旧御射山社がある凹地の地形を思い起こしてみると、平地はごく僅かです。そのため、ここで大がかりな“競技”をするのは不可能なことがわかります。
再び『諏訪市史』の同項から抜粋したものを載せました。
このように、斜面に残る段は、宿泊施設を作るために造成された平地の跡ですから、陸上競技場や野球場の観覧席を思い浮かべるのは間違いとわかります。
御射山では、“鎌倉幕府に忠誠を誓う会”が行われたと見るほうが現実的かもしれません。もちろん、身銭を切って遠路はるばる駆けつけましたから、その後の“懇親会”では、相嘗(あいなめ)に名を借りた飲み食いのドンチャン騒ぎがあったのは十分想像できます。
これは、『玉葉和歌集』に載っている、諏訪神社下社の大祝(おおほうり)金刺盛久が詠んだ歌です。御射山祭が行われたのは真夏の一時(いっとき)ですから、霧ヶ峰に棲むクマやシカは、突如として“信濃国諏訪郡(こうり)御射山村”が出現したことに驚いたのは間違いないでしょう。
“観覧席”が否定されたことで、改めて、当時の景観を想像してみると、昼間より夜の御射山が浮かびます。土壇に沿って(蚊除けの)かがり火の列が重なるのを…。