御田植神事が始まるまでの時間を有効に使おう、と「青塚古墳」に寄ってみました。すでに何回か来ていますが、今日初めて青塚社入口にある石碑に焦点が合いました。高さは60cm余りと見た碑文を読んでみると、仲良く並んだ双方とも「大塚大明神 位」でした。
最近、灯籠などの石造物に彫られた元号を確認するようになりました。その流れで右の碑を「チョッと拝見」と覗き込むと、記憶に有りそで無さそな「宝」と「亀」が読み取れました。念のために、指でこすったりなぞったりして「宝亀四年」と確認しました。干支(えと)の方は判読できないので、線の集合として書き写したそれに近いのは「癸丑」でした。
石に彫られた年号は、風化やコケが乗って中々判読できない場合があります。しかし、元号と60年毎に繰り返される干支の組み合わせで、一部が不鮮明であっても推定することができます。因みに、といっても調べて分かったのですが、癸丑の年は現在まで23回ありました。逆に、元号と干支が一致しない場合は、その信頼性が大きく揺らぐことになります。
自宅で、「宝亀」は西暦何年だろうと年代表を開きました。ところが、「宝亀」がありません。何回も見直しますが結果は同じです。もう一度確認しに行かねばと思いましたが、その前にネットで検索してみました。
即座に表示した「宝亀」は元号に間違いなく、西暦換算は773年でした。(130年の開きがありますが)誰もが比較できる「大化の改新」が645年ですから、地方ならずとも異例の古さです。そんな大昔のこととはつゆ知らず、ページの区切り・1000年までしか目を通さなかったので、架空の元号ではないかと早とちりしたのも無理はありません。改めて開くと、確かに宝亀4年・癸丑(みずのとうし)「光仁天皇の世」とありました。
これが当時のものなら「長野県で最古」、いや「大塚大明神に限れば日本で最古の碑」ではないかとテンションが揚がりました。一つ気になるのは、文字に風化が見られないことです。これは「近世まで土中に埋まっていた」と(希望的に)解釈しました。一方、左の「大塚大明神」には元号がありませんから、見た目からは「宝亀」をさらに上回る古さとなりそうです。いずれも「大塚大明神」の後に一文字空けて「位」とあるので一層古くささを感じます。
一週間後、再び大塚大明神の前に立ちました。元号以外に何か情報が得られないかと観察すると、側面に「明治」の元号があり一気に全身の筋肉が弛みました。
しかし、拾う「大塚大明神」がいて、左がその破損した碑であり、ここには同じ銘の新旧二基の碑が並立していることを理解しました。
破損は真横に真っ二つならぬ“真っ三つ”という大きなものですが、右の碑を参考にして「大塚」の右側をしげしげと見ると、直前まで見えなかった小さな文字が浮かび上がりました。まだ希望はあります。
干支二文字のいずれも下の部分が剥がれていますが、「宝(寶)亀四」と推測できます。ただし、再建した碑でオリジナルの文字を読んでいたからで、そうでなければ大いに悩むところです。
「大塚大明神」は、「塚」の文字上半分の位置がセメントで接合してあります。そのため、明解に「塚」とは読めません。「豕」も「水」と読めます。「明」も「朋」になっています。現代の常識では誤字とも取れますが、これが至って碑の古さを感じさせます。これで最古である可能性がますます高まってきましたが、ぬか喜びに転じる最悪の展開も考えてみました。左の碑も、右と同じように「再建された可能性がある」ということです。
再び右の碑に戻ります。難解の「回禄ノ災ニ罹リ」ですが、現在でも使われる「罹災(りさい)」から、「回禄」とは地震か火事のことであろうと予想していましたが、辞書では「火事の古語的表現」とありました。明治7年に火事があり、その火災熱か、または近くに折れた鳥居が転がっていることから、それが倒れた際に当たって割れたと状況分析してみました。
まとめとして、この碑の「一人真贋論争」に戻ります。有賀さんがまったく同じ形で再建したのは、この碑の古さがわかっていて、それを後世に伝えようとしたからでしょう。私も、書体の古さ・明神「位」・元号が右側に彫られていることから「日本最古の大塚大明神位碑」と断定しました。仮に「最古の大塚大明神」があっても、「位」が入るのは極めて珍しいと思われるので「日本最古」を謳うことはできそうです。
その後、『下諏訪町誌』を始め図書館にある石造物関係の本をすべてチェックしてみましたが、リストには載っていません。これは、公の機関が「宝亀四年」を認めていないということになります。それは別として、この古墳は「王塚が青塚に転じた」とするのが定説ですが、ここに現物の「大塚」がありますから、「大が青になった」説も並べることができそうです。