ネットで、大正5年出版の信濃郷土誌研究会『信濃郷土史研究叢書 第一編』※を見つけました。国立国会図書館デジタル化資料の一つですが、巻頭を確認すると「信濃郷土史研究叢書 諏訪研究」で、巻末には「編纂兼発行者栗岩英治」とありました。
私にとっては信濃郷土誌研究会と栗岩英治さんは初見なので、どのような団体と人物なのかがわかりません。それは追々調べることにして、拾い読みをする中で〔三、神社の昇叙〕にある一文に目が留まりました。諏訪大社を研究している人には“旧知の事実”だと思いますが、…私には知識外のことでした。以下にその抜粋を転載しましたが、クセのある(読みにくい)文体なので、マーキングした部分を読むだけでもかまいません。
ここに出る「おう塚」が、諏訪大社下社秋宮の近くにある「青塚」を指しているのか自信を持てません。その古墳は、どう譲歩しても「下諏訪町役場の背後」とは言えないからです。
調べると、古墳と接している諏訪湖オルゴール博物館「奏鳴館」の敷地に旧役場があったことがわかりました。大正のことなので、知らなくても恥ずかしいことはありませんが…。
以下は、江戸時代の『洲羽かのこ』に載る〔王墳の事〕の一部です。
著者の勝田九一郎正履さんも「おう塚」説なので、これから進めようとしていることに弾みが付きます。
朝廷から「大(おお)」の姓を賜った金刺貞長の墓が青塚であるという話に注目したのは、大塚(青塚)が「大氏の塚」とリンクするからです。さっそくに調べると、貞観5年は863年でした。長野県教育委員会が設置した案内板では「古墳の築造年代は6世紀後半から末」としていますから、双方の年代は余りにもかけ離れていることがわかります。これで、あっけなくも「大朝臣貞長の墓が青塚」説は消えてしまいました。
私は、諏訪湖北岸に勢力を張った「王」とも言える被葬者を、8世紀後半になってから顕彰した碑が「大塚大明神位」と考えています。ただし、石碑の改ざんは“いつでもできる”ので、「万治の石仏」同様、銘文のみで時代を確定することはできません。
左は、古墳のくびれ部にある青塚社の灯籠です。高島三代藩主「従五位下諏訪因幡守・源忠晴」が奉献したものですから、少なくとも江戸時代初期から藩主家が青塚社を特別な存在として崇めていたことが想像できます。
この灯籠は、下社の春宮・秋宮(共に宝殿の前)と上社本宮にある灯籠と同型・同時代のものです。それが青塚社にあるということは、何らかの謂われ──例えば「下社の始祖の墓」と伝えられていたのを藩主が認識していたことに他なりません。
ここで“改行しました”が、後に続くモノが出てきません。再び、大塚大明神位碑に彫られた「宝亀四年」の真贋を問えないまま立ち往生してしまいました。
下社の古い文献とは“疎遠”になっていることもあり、「金刺」が出ると(私が持てる知識では)もうお手上げです。そのため、『下諏訪町誌 上巻』から〔上代の下諏訪〕の一部を転載しました。伊藤富雄さんの文ですが、貞長や時代背景がよくわかります。