「下社の参拝線にレイラインはあるか」と、地図を眺めました。
宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録に、江戸時代に描かれた『下社御射山古図』があります。
これはその一部ですが、左上の文字を“解読”すると「鷲ヶ峰・虚空蔵」が読めました。
不鮮明な画像(版画)をさらに縮小したのでゴチャゴチャしていますが、長野県立歴史館蔵『国幣中社諏訪神社下社繪圖』の上半分です。
このままでは?なので赤枠を拡大すると、二つの池が「八島ヶ池・鎌ヶ池」となります。また、薄れた字が「ワシガミネ」とわかれば、『下社御射山古図』の「鷲ヶ峰」に対応します。
そのため、この絵図には書かれていない「虚空蔵」が、次に出る神事から、右側の「御射山社」に付随する「大元尊社」の“旧(もと)大元尊社”という関係になります。
左の大元尊碑は、八島ヶ原湿原の最高峰である鷲ヶ峰(1798.3m)の登り口にあります。諏訪大社下社は、9月27日の旧御射山祭ではこの碑前で大元尊社祭を行います。
この碑は、鷲ヶ峰への登拝は困難として麓に設置した里宮と考えられますから「鷲ヶ峰=大元尊碑」となり、「秋宮の神体山は鷲ヶ峰」という仮説が導き出せます。
8月27日の下社御射山祭では、国常立命社祭が行われます。前出の大元尊碑とは同体の関係ですから、この地における鷲ヶ峰と言えます。
ここまでに挙げたものをまとめると、「鷲ヶ峰」は「虚空蔵=大元尊碑=国常立命社」となります。
諏訪大社下社と、『繪圖』に描かれている鷲ヶ峰(ワシガミネ)・旧御射山社・御射山社に何らかのレイラインがあると睨み、Googleマップにそのアイコンを表示させててみました。
これを眺めると、クロスした「春宮━御射山社━旧御射山社」と「秋宮━御射山社━鷲ヶ峰」のラインが成立します。
秋宮の境内を拡大すると、幣拝殿の縦軸に、鷲ヶ峰ライン(━)がドンピシャと言えるほど整合しています。これでは、社殿を鷲ヶ峰に向けて建てたとするしかありません。
それとは別に、幣拝殿と神楽殿の横(縦)軸が「地図の描画ミスか」と思うほどズレていることに気が付きました。
衛星写真で確認すると、その違いは微妙です。これは横長社殿の一部だけが写っているためと考えて社殿の大棟にラインを引くと、確かに1°のズレがあるのが確認できました。
それなら春宮はどうなのかと確認すると、同じようにズレています。これは意図的なものと思われますが、ここでは余談として、これ以上は取り上げません。
ここで、「交差している」と見た御射山の周辺を拡大したものを用意しました。ただし、前出の国常立命社はGoogleマップでは表示しないので、参考位置となります。
これを見ると、「秋宮─鷲ヶ峰」ライン(━)が、御射山社と、少し離れた東の尾根にある国常立命社の中間を通過しています。
一方の「春宮─旧御射山社」ライン(━)ですが、そもそも春宮の神楽殿−幣拝殿の参拝軸とは大きく異なっていますから、単に春宮と旧御射山を結んだものという結果になりました。
ただし、この距離この場所での交差ですから、御射山社を里に遷す際の条件「春・秋両社との関係を維持し、池がある」場所がここであったと考えることができます。
ここまでに挙げた考察から「秋宮の神体山は鷲ヶ峰」としたいのですが、(見通しが利かない)山の向こうとなるレイラインに必ず付きまとうのが「測量技術が未熟な時代に、どのようにしてその場所に決めたのか」という疑問です。それが解決すれば、「秋宮の神体山は鷲ヶ峰」と声を大にすることができるのですが…。
諏訪大社下社は、(旧儀では)元旦に「秋宮→春宮」、7月1日には「春宮→秋宮」と半年のサイクルで遷座が行われます。研究者は、それについて「神は春に里に降り、秋に山へ帰る」という話に絡めて解説しています。
それを、ここでは「秋宮は鷲ヶ峰に向く」ですから、「八島ヶ原の池塘⇔鷲ヶ峰」の関係と捉えてみました。
下社のラインを見て、実質は諏訪神社という小野神社(
)・矢彦神社(
)と御射山社との“関係”を挙げてみました。
こちらは「本社─御射山社」というラインですが、以下に出る上社の御射山社と同じで「同格となる神社の各御射山社に対する方向は逆」という共通点があります。
これが、社殿の向きから設定した上社の「御射山社─入笠湿原(または入笠山)」ラインです。
下社の「御射山社─鷲ヶ峰」ラインとは真逆になりますから、上社が御射山社を造営する際に意図的に差別化を図った※ことが窺えます。
因みに、「入笠山─御射山社」ラインなら41°17′で、「秋宮─鷲ヶ峰」ラインの41°33′とは極近似値になります。