江戸時代に書かれた『信濃國昔姿』では、酉の祭に続いて「二之頭祭」を書いています。
「御頭郷の役ではない。鎌倉時代より伊那郡の村々が課役銭を負担し、矢島・花岡両奉行がそれを集めて祭りを行った。前日と同じく社家が出席したが、御頭祭の神事とは大きく異なった」と読みました。それとは別に、「本宮境内の寺地でも、21寺だけで神事を行った」ことがわかります。
『諏訪古文書集』に「大祝家文書・古記断簡」があります。前部が欠けているので時代は不明ですが、「御頭郷に於いて新屋(精進屋)を造る」とあるので、古くても江戸時代初期と思われます。
「前缺(ぜんけつ)」
一、同月酉日前宮に於いて (中略)
一、同翌日同所に於いて二御頭祭礼有り、下伊那郡より頭役と号し之を賄う、両奉行之を勤める、猪鹿饗膳有り、
「二之頭祭」とよく似ている内容ですから、『信濃國昔姿』の作者がこの文書を引用した(読んだ)のは間違いありません。
室町時代に書かれた『年内神事次第旧記』があります。御頭祭の次の日に「戌日ハ内縣宮付ニ御頭」と書いてありますが、ひらがなの「ニ」なので関連付けができずにいました。後日、武居正弘編の同書で見直したら、「補注」に以下のように書かれていました。
次は、「永禄四年より天正元年、武田信玄卒去の年までその十三年間に渡る諏方上社祭祀の頭役を勤めし郷名並びに役銭・神饌等を各々記録せしむるものにして」とある『御頭帳』と『御頭役請執帳』です。
十三日 壱之御頭 下桑原
御酒、篠讃※。御供、河源※。むしろ二枚河源取候。
十四日 貳之御頭 カひぬま
御酒、篠讃。御供、河源。
十五日 三之御頭 座光寺
御酒、篠讃。御供、河源。
翌年は、それぞれが「矢崎之郷・彌津両人・上伊那宮木之郷篠讃」に代わっています。世は戦国時代です。頭役に当たった領主・地頭・代官の中には出陣中の者が多くいたので、武田信玄が家臣の篠原讃岐守・河西源左衛門尉に命じて頭役を斡旋・奉仕させたそうです。
結局は武田家の滅亡で、再興になるかに見えた「御頭」制は廃絶し、江戸時代に入ってから「御頭郷」制に替わったことになります。改めて『信濃國昔姿』を読み返すと、「往古鎌倉時代」がその後の記述に繋がっているようなので、この時代では「寺方ばかりにて神事」と読んだほうがよいのでしょうか。