現在の呼称である「御頭祭(おんとうさい・おとうさい)」は、時代によって大きく異なっています。ここでは、“誤解”を避けるために、大ざっぱですが「中世・江戸時代」などと時代区分を書き入れました。
この神事は、四頭ある御頭の一つ「神使御頭」が遂行し、信濃国中の神氏および上社の五官と諏訪十郷が奉仕しました。
諏訪神社上社の祭祀が隆盛を極めた鎌倉時代では、旧暦3月の初午から13日間をかけて「春祭」が行われ、大祝の代理である神使(おこう)6人が外縣(とあがた)・大縣(おあがた)・内縣の各地を巡回して廻湛神事を行いました。
しかし、北条氏の滅亡と続く戦乱で、神事は有名無実になりました。
これにより、藩内の御頭郷が輪番で祭礼に奉仕するようになりました。すでに神使の廻湛は廃絶していたので、酉日の大御立座(おおみたちまし)神事のみが行われました。これが今で言う「御頭祭・酉の祭」です。
御頭祭は諏訪大社固有の神事です。その古式に倣い、本宮から1.5キロ離れた前宮の十間廊に出向いて五穀豊穣を祈ります。
明治以降は、御霊代を神輿に乗せて“一日遷座”をする方式に替わり、それが現在まで続いています。
神輿は、茅野市泉野の「中道(なかみち)」と「槻木(つきのき)」両区の氏子が担ぐのが慣例です。その衣装はショッキングイエローとでも言えそうに目立つ「黄丁」です。
前宮に到着した神輿は、十間廊の上段の間に安置されます。江戸時代中期の文献には、「上段の間中央に高麗縁(こうらいべり)の菰(こも)畳に鹿皮が敷かれ、その上に大祝が着座した。左には太刀持ちが控え、前には鹿頭を載せた俎板(まないた)が5枚横一列に置かれた」と書かれています。そのことから、神輿(御霊代)が大祝の代役ということになります。因みに、ここに出る「太刀」は「根曲の剣」です。
“苦肉の策”と書きましたが、細野正夫・今井広亀著『中洲村史』に、後奈良天皇宸筆「諏方正一位南宮法性大明神」と書かれた「御神号」の記述があります。
このように、大祝の代役「御神号(諏訪明神の御霊代)」は、すでに前例があったことがわかります。このために、頭を悩ますことなく「大祝→神輿というシステム」にスムーズに移行できたのでしょう。
前宮十間廊に安置された神輿の前に、「御杖柱」と呼ばれる長さ7尺3寸(約2.2m)のヒノキ柱が掲げられます。
三輪磐根著『諏訪大社』では「檜・柳・デシャ(アブラチャン)・コブシの枝と柏葉を取り付け矢一手を加えて蔓(つる)で結ばれ5尺の五色の絹で飾る」と説明しています。
現在は角柱ですが、古くは「御杖」と呼ぶ、榊枝に髪の毛を結び付けたものを束ねた、文字通りの杖の長さ軽さだったそうです。中世に書かれた『諏方大明神画詞』には、意訳ですが以下のように書いています。
代わって、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』にある『社例記(控)』の一部を転載しました。延宝7年(1679)に幕府の命で書き上げた諏訪神社上社の調書です。
この時代ではまだ小童が捧げることができる「杖」ですから、1680年以降に現在の「角柱」に代わったことがわかります。各地へ出張する廻湛神事が完全に廃れたので、携帯性に優れた「杖」から、見栄えのよい据え置き式の「柱」に変わったことがわかります。
天明四年に御頭祭を見学した菅江真澄は、紀行文『すわの海』と、そのスケッチを何枚か残しています。
その中から、鹿頭とキジが描かれた部分※を転載しました。※ 内田ハチ編『菅江真澄民俗図絵』
折敷に載ったキジは現在も古例に倣って神饌の一つに加えられていますが、神事が終わると野に放たれます。
担当者に訊くと、「養殖した御頭祭用のキジで、近く(前宮)だと里に向かって飛び立つので、砂防ダムの近くまで上ってから放つ」ということでした。
中世に書かれた絵巻物『諏方大明神画詞』から紹介します。
この時代では、正・副3組で計6人の神使が、初午の日に外縣、酉の日に内縣・小縣へ廻湛に向かい、小縣担当の神使は寅の日に帰ってきたことがわかります。また、ここに描かれていた三枚の絵がどのようなものであったのかが気になりますが、今“之無”では…。
荒玉社祭 御頭祭に先立って「前宮荒玉社祭」が行われます。「なぜこの日」なのかわからないので調べてみましたが、御頭祭を含む一連の神事には「荒玉神事」が見つかりません。
『画詞』にある「二月晦日荒玉御神事、神使殿御出仕始」が、一ヶ月遅れとなった御頭祭に合わせて「三月晦日」となり、さらに「御頭祭当日」に変更したと考えてみました。
しかし、現在でも2月28日に「本宮荒玉社祭」が行われていますから、古例と“正確に対応している”神事ではないようです。その神事を参観した足で、御頭祭の舞台となる前宮に寄ってみました。
前宮の大幟 御杖柱にも用いられる楊柳があるのを知っていますから、早速カメラを向けて「春遅い諏訪でもようやく花が」を撮ってみました。
幟を背景に入れたのは、単に御頭祭に相応しいからということではありません。「朝臣・守矢真幸」さんは、諏訪大社の宮司も勤めた神長官守矢氏の直系で、守矢早苗さんの祖父です。直筆の墨跡を見てから、心を新たにして本宮へ向かいました。
諏訪大社上社例大祭
10時、宮司以下の神職と参列者は清祓池前で修祓を行った後、神楽殿向かいの石段から四脚門を通って斉庭に入ります。長野県神社庁の献幣使も修祓を済ませ、その後に続きます。
この後に行われる「例大祭」は御頭祭とは直接には関係ありませんが、今日行われる祭事の一つとして載せました。
確かに扉が開かれ、普段は正面の定位置を占める御鏡や金幣は脇に寄せられていました。ただし、金襴が下がっているので「その向こう」を見ることはできません。宮坂光昭さんは「前宮を見通す」と推測していますが、私は「尊神の御在所(神居)を年一回だけ“御開帳”している」と考えています。
『年内神事次第旧記』では、荒玉神事の後「割柳四十を一束つヽにして、宮の舞台にて四つヽ持参らせて、申立」と書いています。「宮」は本宮のことですから、現行の「(荒玉社祭に続く)例大祭」がこれに重なります。例大祭の祝詞奏上が「申し立て」に相当すると考えれば、かつては2月晦日と翌月の初午から二週間近く続いた神事を「一日に集約した」となり、誠に合理的な神事の流れということになります。
午後1時、警蹕が流れる中、御霊代は神輿に移されました。いよいよ神輿の出立です。行列は斉庭から四脚門・布橋を経て県道を前宮へと進みます。
先導する神職以降の行列は上の写真をご覧下さい。因みに、右側の社殿は「相本社」です。例年だと、境内の桜が行列に華を添えます。
部分通行止めを繰り返しながらの移動は、「高遠城址の桜」が見頃とあって、その行き帰りの車も加わり渋滞に拍車を掛けます。行列の人数以上の車を止めての行進は、見学者にとっても楽しいものでした。
諏訪大社と御頭郷の神職、各界の代表・諏訪大社大総代・御頭郷総代・氏子代表・諏訪大社玲人が着座します。入りきれないため、回縁にもはみ出したお尻が並びます。
神輿が上段の間に安置されました。元々神輿など想定していない造りなので大混乱でした。担ぎ手は毎年同じ地区が担当しますが狭いスペースに人数が限られ、その上重さも加わりますから、例年通りというわけにはいかないのでしょう。
再び警蹕が流れ、宮司が神輿の御簾を開きます。私は頭を下げていたので、どのような所作をしたのか伝えることはできません。
通常の品に加え、御頭祭のシンボルとも言える鹿頭部の剥製が加わります。また、乾物だけでは味気ないのか、冷凍ですが鹿肉のブロックも献じられます。上写真は動きのある神職がややブレ気味ですが、十間廊端からの望遠とシャッタースピードが1/10という暗い条件では、奇蹟のショットと自画自賛しています
「御杖柱の御手幣(みてぐら)を奉る」の声で、脇に置かれた御杖柱が神輿の前に安置されました。私はその形状と名前から幣帛とは捉えていなかったので、「現在の神事ではそうなるのか」と知識を得ました。
撮影ポイントを変えようと、一旦十間廊から離れました。下の境内では、神輿・薙鎌・矛・毛槍などの担当者が、所在なさげに待機しています。この日は曇りで風も強くさらに気温も低めでしたから、ひたすら待つだけの姿に同情してしまいました。
「東山田長持保存会雅楽部」が笙(しょう)や篳篥(ひちりき)を奏でる中、神事は粛々と進みます。
祝詞奏上・玉串奉奠が終わると、後は撤饌です。再びの警蹕で神輿の御簾が閉じられ、最後は宮司一拝で滞りなく神事は終了しました。
「特殊神事の御頭祭」と言えど、現在では“これだけ”です。しかし、たまたまの役職で立ち会う参列者はヤレヤレでしょうか。
御頭祭が終わると、神職と参列者は直ちに内御玉殿(うちみたまどの)前に移動して「内御玉殿祭(大祭)」を行い、その後、若御子社祭と続きます。『諏方大明神画詞』には、御頭祭を含む13日間の神事・春祭りの最終日に「内御玉殿の神宝を参詣人が見た」と書いてあります。かつての長期に渡る神事の最後を締めくくった「神宝拝観」が、御頭祭同日と簡略化したものの内御玉殿祭として行われているのでしょう。
神輿は再び黄丁の肩に乗り、揺れながら神原(ごうばら)を下って行きました。行列は逆コースを、再び渋滞の“素”を振りまきながら本宮へ戻ります。
私が“前宮宮付の猫”と呼んでいるネコが、不思議そうに見送っていました。
行列の最後尾に付いて本宮に戻ったので、御杖柱は幣殿に戻され、神輿も正面に安置してありました。
終了の“報告”ですから、片拝殿に控えているのは、ぐっと減った人数と揃いのハッピから御頭郷の大総代だけでしょう。
「おーー」と、今日四回目の警蹕が流れる中、御霊代が幣殿の奥に納められました。4時10分、宮司が退下して今年の御頭祭も無事終わりました。