福与諏訪社から、河岸段丘の等高線に沿った道を御射山三社へ向かいました。斜面に沿って左下方に目を転じると、その辺りだけに民家がまとまっています。道は見えませんが、集落の中心部と思われる場所に幟枠らしきものが見えます。目的の御射山三社のものでしょうか。
一方、傾斜があるので道上と言っても高台になってしまいますが、ビニールハウスの前に「なぜ」というセスナが駐機しています。近づくとその直下は交差点で、そこから右手の山に向かって谷が開けていました。右折して、セスナが置かれた「山の上のテラス※」を横目で見ると、鳥居は目と鼻の先でした。
写真でわかるように拝殿はかなりの大きさです。奥の梁に「御射山三社」の額が掲げてあり、その下に、格子を透かして横長の本殿が広がっているのが見えました。
床にはこれといったものがありませんが、四面の壁が格子なので覆屋といった造りです。一体、何に使われているのでしょうか。
拝殿の右側から奥に回り込むと、長い回廊が拝殿と本殿のそれぞれ中央を結んでいます。両社殿が離れているのは地形上の制約とは思えませんから、この御射山社特有の造りなのでしょう。前面がオープンの本殿は名前を象徴する三部屋に分かれており、奥壁だけがススキで覆われていました。これを見て、穂屋の遺風を伝える「これぞ御射山社」と一人頷いてしまいました。
近づくと、壁一面ではなく格子一本にススキが一束ずつ結わえてあることがわかりました。そのススキを透かして台座付きの幣帛が覗いています。社殿は空ではありませんでした。
見た通りの“簡易穂屋”ですが、かつては「外諏訪」と呼ばれ、現在は諏訪郡と接する上伊那郡でこのような御射山社が現在も存在していることに驚きました。
屋根裏に「昭和五年十二月二十二日・奉葺替御射山三社假神…」とある棟札が見えます。「假神…」は「仮神殿」のことでしょうか。その下の、前回となる棟札には「明治三十八年十二月」の文字だけが覗き、左に三文字だけですが「氏子中」と読めます。昭和の葺き替えでは「社掌唐澤忠(その後は隠れて不明)」とあります。現在では宮司と呼ばれる唐澤忠さんはまだ健在でしょうか。
屋根の切妻部を見上げて、かつては総萱葺きであったことに気がつきました。多少の補修ではその技術は伝わらないと思われますから、それを危ぶんでトタンで覆ったのでしょう。これで当分の間は安泰ですが、見る限りでは、その前に床や壁が傷みそうです。
細部を観察すると、釘を一本も使っていないのが分かります。それを目的に調査をしているわけはないので「私の知る限りでは」という表現になりますが、高遠町の守屋神社本殿の覆屋と今日午前中に見た南箕輪村田畑神社の舞台、それにここ箕輪町の御射山三社本殿の構造は酷似していました。同一の技術が伊那谷に伝わっているのかもしれません。
残念ながら、境内には案内板の類が全くないので、三部屋の“住神”を特定することはできませんでした。
カーナビでたまたま表示した福与諏方社と御射山三社の参拝なので、全く知識がありません。偶然なのか招待されたのか、御射山三社との縁(えにし)を想いながら伊那の穂屋を後にしました。
ネットやカーナビの地図では、(ここを)「御射山三社」と表記しています。ところが、ネットを含めた活字媒体では「御射山三社は総称」と説明しているので、私には“固有名詞と総称”の違いが明確に区別ができません。
唐澤貞治郎編『上伊那郡史』から抜粋しました。
ここでは、御射山三社を「御旅所」とすれば“よく”理解できますが、そうなると御射山三社の名称が宙に浮いてしまいます。次は、地元三日町地区が設置した秋宮社境内にある「案内板」の抜粋です。
ここでも、御射山三社を御旅所と表記しています。地図に載る「御射山三社」は誤記なのでしょうか。
平成24年になって御射山三社を再訪したところ、社頭に「御旅所 三日町区」の標柱が建っていました。
地元三日町では、案内板を含め「御旅所」と認識しています。しかし、拝殿の額には「御射山三社」とあり、棟札も「御射山三社」です。また、遷座する祭神三柱とその穂屋は三棟(現在は三部屋)ですから、「御旅所が御射山三社」であることは間違いありません。
地元では“頑(かたく)なに”「御旅所」と言い張っているように映りますが、なぜでしょうか。