加茂岩倉遺跡からは、最短距離の峠越えです。道が平坦になると諏訪より半月早い春の山里に包まれ、思わず笑みがこぼれました。そろそろ目的地ではないかと、地図から得た「交差点の手前右」を唱えました。
行き過ぎたのがわかり、Uターンができそうな空き地に乗り入れました。完全に停止すると、まだ風を切って突き進んでいる時間軸に置き去りにされたような感覚を覚えました。余りにも少ない旅の持ち時間がそう思わせるのでしょうか。
すぐに、斐川町が設置した「田園空間博物館」と(副題が)ある「神代神社」の案内柱がありました。右には写真付きの解説板もある“二本立て”ですが、「鳥居だけ」を目標物としていたので、まったく気が付きませんでした。
火袋以外は自然石という灯籠を左右に見て、石で土止めした歩き難い参道を登りました。
鳥居を見ることがないまま、突き当たりのやや右手に入母屋造りの拝殿が現れ、それに本殿が連なっていました。
拝礼を終わらせてから拝殿内を覗き込むと、掲額には「神代神社・宇夜八幡宮」と二つの社名があります。主祭神名から、明治初頭の神社合併で「神代神社」と改称した可能性を思いました。
帰り際に、案内板の写真をメモ代わりに撮っていたら、停まった軽トラから声が掛かりました。近くには「荒神谷遺跡」という超メジャーな“観光地”があります。そのため、多分誰も振り返らない案内板の前に立つ私の姿が、彼の注意を惹いたのでしょう。
“案内板通り”の話は別として、「神代神社は女の神様なので、千木の先が平(地面と並行)になっている」と言います(左写真)。しかし、持てる知識は雑誌で得た「男神・女神は鰹木の奇数偶数」でしたから混乱しました。それを見て取ったのか、わざわざ車から降りて「案内板写真の千木」を指でさしてくれました。ここで完全に理解できました。
また、その理由は聞き損ねましたが、「鳥居がない代わりに灯籠を建てた。氏子が15人(軒)」などの話を聞くことができました。
案内板に「宇夜都弁命がこの郷の山の峯に天から降られた所で…」とあるように、神代神社背後の権現山に磐座があることを知りました。
それが気になっての、10年後となる今日の再拝です。相変わらず鳥居が建てられていないのは、それなりの由緒から来ているのでしょう。
標識に従って右の道を選びます。思いの他の急坂で汗をかきましたが、長年の懸案だった磐座に対面できました。
残念ながら、平地が狭く、谷川にカメラを差し伸べても、全体を撮ることができませんでした。
ここまで登れば、山頂が気になります。分岐に戻ってさらに登ると、…現れたのは送電線の鉄塔でした。
磐座の前にあった案内板『由来』を転載しました。
かなを振ると異常に長くなる天皇は、景行天皇でした。