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諏訪開諏訪神社 京都市下京区諏訪開町

 名称は、鎮座する諏訪開町に因んで「諏訪開諏訪神社」としました。

 京都駅から、直線距離で1kmにも満たない場所に諏訪神社があります。住所は「下京区諏訪開町(すわびらきちょう)」ですから、「諏訪神社(現諏訪大社)の分社が京都のここで開かれた」と言えるでしょうか。
 地図でその周辺を見ると、「突抜町」や「西酢屋町」には?ですが「夷(えびす)馬場町」は、諏訪神社の「流鏑馬馬場や犬射馬場」の名残ではないかと“拡大解釈”してしまいます。
 地図を見ているだけでは何も始まらないので、紅葉の京都にはまだ早いのですが「古都の諏訪」へ出かけました。

京都にもあった諏訪神社 '08.11.19

 この秋一番の冷え込みと思われる朝、西本願寺の国宝「唐門」を見て(無料駐車場を確保して)から諏訪神社へ向かいました。
 今日は「これがあれば絶対に迷わない」という詳細地図を持参しましたが、まさかの「アレッ」となってしまいました。「一旦表通りまで戻って改めて」と考えましたが、折良く「この人なら絶対に知っている」と思わせる高齢の女性が近づいてきます。
 この時点では道一本通り過ぎているということで、裏参道とも言える南からの道を教えてくれました。枡形のような狭い路地を進むと、その先に赤い鳥居が見えました。

諏訪開諏訪神社

諏訪開諏訪神社
北側から「諏訪開諏訪神社の全景」

 諏訪神社の社地は、三方が平安高校と本願寺の職員住宅及びその駐車場で囲まれ、残る一方だけが諏訪開町の民家でした。
 写真では左の家にも同じことが言えますが、ここが神社でなければ「とっくに本願寺に呑み込まれていたのでは」という特異な環境でした。

諏訪開諏訪神社の神木
この時は気がつかなかった「屋根から突き出た神木」

 平成19年建立とある石鳥居をくぐると、目の前は拝殿の側面です。
 その上にそびえる大木を仰いでから左へ回り込むと、社務所と思われる小屋の前に建材や電動工具が置かれ、今も大工さんが動き回っています。断ってからそれらを跨いで拝殿の正面に立つと、提灯や祠の定紋幕に4根の「諏訪梶」があり、諏訪神社上社(現諏訪大社上社)の分社とわかりました。
 私は、(人目があるとやや恥ずかしいのですが)神職に倣って深く前屈して拝礼します。そのため、目の前に余裕が無いことから、背後の塀まで下がってから腰を曲げるという手順をとりました。それほどの狭さですが、京都のど真ん中に今でも諏訪神社があり、それを祀っている人々がいることに嬉しくなりました。

 透明シートが貼られた格子から拝殿内を覗くと、何と倉庫です。これで、「京都」を冠した諏訪神社の評価が一気に下がってしまいました。

諏訪開諏訪神社「拝殿」 しばらくしてから、この乱雑さは、社務所の改築のために備品を拝殿に持ち込んだためと気が付きましたが…。

 御簾(みす)の前に、「諏訪大明神」とある額が懸かっています。その下が社殿の中央という位置ですが、箱が積み重ねてあり何も見えません。

諏訪開諏訪神社「神木」 場所を変えた左方から観察すると、最前列に飛び出た格好の木祠があります(写真右)
 定紋幕に「諏訪梶」があるので諏訪神社の本殿と見たのですが、その後ろに何か怪しげなものがあります。一瞬、屋根の上に見えた大木と思いましたが、拝殿内に“生えている”はずがありません。

諏訪開諏訪神社「本殿」 その正体不明のモノに目を留めたことで、その背後に、古びた小さな祠があることに気が付きました(上写真左)。そうなると、その左右にも社殿が確認でき、木札に「八坂刀売命」と「大国主命」が読めました。その場所は御簾の向こう側ですから、中央を建御名方命とする諏訪神社本来の社殿配置が浮かび上がりました。そうなると、最前列に置かれた新しい祠が何なのかということになりますが…。
 大工さんに訊くと、話がかみ合わなかった「子供の頃は清水寺と同じ舞台造りで、向きも逆だったような記憶がある」との返答を得ました。後になって社殿が高床造りだった可能性を思いましたが、撮った写真では確認できませんでした。

 裏道から来たので、帰りは表参道から退出しました。参道といってもただの小路ですが、そこに「七不思議・諏訪神社・参道」の案内板がありました。たまたま(偶然に)諏訪神社に寄った人は、これも見ても何が「七不思議」かわからないでしょう。

諏訪開諏訪神社 現状は倉庫という諏訪神社だっただけに、いったん戻り、平安高校のフェンス前から神木を背後にした拝殿の正面を撮ってみました。
 前の更地がかつての参道だったようにも見えますが、どうなのでしょうか。

蛙狩神事

 長野県諏訪の総合月刊誌『オール諏訪』に、郷土史研究家原直正さんの「京都諏訪神社と蛙狩神事」が載っています。「諏訪神社上社(現諏訪大社上社)の神事蛙狩りが、ここでは、30年位前までは形は変わっているが細々と行われていた」という内容です。

 この社は、金井典美著『諏訪信仰史』によれば、下京区下諏訪町の諏訪神社と「対になっていることを今も神官が自覚し」上社としての諏訪開町諏訪神社では、陶器製の蛙を境内に据えて蛙狩神事を形ばかり行っているということであった。
(中略)
 現在の宮司も、また総代役員もこれを実見したことは無いという。しかし、高齢の信者の記憶では、「手作りの的を立てて、信者が弓矢で的を射て命中した箇所により、宮司がその信者に種々説明されていた」ということである。 
(中略)
 全国に勧請された諏訪神社は数千社あるというその中で、変化はしているものの、蛙狩り神事を伝える社として、先出の生島足島(いくしまたるしま)神社と共に、この諏訪開町諏訪神社は貴重な存在である。

「カエルさん」諏訪開諏訪神社 最上部の写真では右半分、この写真では本殿の後方に当たる境内に、様々な境内社がひしめき合っています。
 その中で、丁度本殿の真後ろを占める位置に木祠があり、横には注連縄が掛けられたカエルの置物が幾つか並んでいます。これが「蛙さん」と呼ばれる祠で、諏訪から見ると“地方の京都”に、蛙狩神事は廃れても、その記憶がカエルの置物となって残っていることに感動しました。

蛙狩神事の名残 拝殿の隅に、すでに途絶えた「弓矢で的を射て…」という神事ですが、その弓矢と的が置かれているのを見つけました。社務所が完成した暁には、定位置に置かれると思いますが、参拝時はこの有様でした。

「京都の諏訪神社」再び '21.1.10

諏訪開諏訪神社 ネットで閲覧できる京都の古図を確認しますが、諏訪神社や「諏訪開町」がありません。諦めかけた頃、もうすぐ明治維新という文久2年(1862)刊行/版元/竹原好兵衛『京都絵地図』に見つけました。

諏訪開諏訪神社 しかし、「スハセン」としか読めません。単色刷版でチェックすると「スハキン」ですから、これは今で言う誤植で、「スワシン(諏訪神)」の間違いと考えました。同じ諏訪神社として参照した尚徳諏訪神社は「スハ」のみですから、スペースの関係で省略を免れたということでしょう。
 因みに、左端にある「イナリ」をGoogjeマップで調べたら、「豆之子稲荷」として健在でした。また、左上にある一画が彼の有名な遊郭「嶋原(島原)」ですから、遊郭の経営者は稲荷神社、そこへ通う人は諏訪神社に寄ってからという図式があったのかもしれません。

 改めてその周囲を眺めると、すべて畑です。地図ではその状況が京都駅が開設するまで続きますから、冒頭では(京都駅に惑わされて)「京都のど真ん中」と書きましたが、町外れと言うより郊外にポツンとあった諏訪神社となりました。

諏訪“開町”とは

 「京都 開町(ひらきちょう)」で検索すると、「○○開町」と「○○開キ町(ひらきちょう)」があります。「開キ町は開墾地」とあるので、京都以外では、新田開発で興った「○○新田村」に相当します。それに倣うと、まず「諏訪神社がある諏訪町」があり、分町する際に諏訪神社を分祀して新しい土地に移ったのが「諏訪開町」と言えます。
 そこで浮かぶのが「尚徳諏訪神社と下諏訪町」ですが、社号標には「諏訪大社(の)分社」とあります。「尚徳諏訪神社とは関係ないよ」と言っているようなものですから、諏訪神社を含む諏訪町全体が現在地に移ったのかも知れません。

神木の椋

 諏訪神社で撮った写真を眺める中で、社殿の中央にある注連縄が掛かった黒い物体が神木の椋(ムク)である可能性が高まっていました。

諏訪開諏訪神社(衛星写真) 長年くすぶり続けているこの件ですが、閃いてGoogleマップの衛星写真を閲覧すると、都合良く2021年版です。つまり正月早々のデータなので神木は葉を落としており、社殿屋根の形状が確認できました。

諏訪開諏訪神社(衛星写真) 3D画像に切り替えると、予想していた「屋根から突き出た神木」が現れました。ここでは、神木が見やすい北側から見たものを用意しました。
 これで、13年前に見た「拝殿内にあった怪しげなもの」が神木と確定しました。

諏訪開諏訪神社 拝殿内にある社殿の概念図を作ってみました。神木が中央の建御名方命を祀る本殿を遮る恰好になりますから、その前に「前立ち」として設置したのが小祠とうまく説明できます。また、「舞台造りで、向きが逆」も、拝殿の背後にある「カエルさん(正式名称は不明)」の祠を言っていたことがわかり、すべての謎が解明できました。
 ただし、拝殿内でいかにして木を伝う雨風を処理しているかの疑問が新たに浮かびました。