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尚徳諏訪神社(下諏訪諏訪神社) 京都市下京区下諏訪町

『京都新聞Web News』に「諏訪神社から尚徳諏訪神社へ 下京、町内会所有で新たな歴史」と載っていました。「尚徳学区自治連合会が、亡くなった宮司の後継者と協議。昨年末に諏訪神社の宗教法人を解散し、諏訪町町内会が所有することにした(抜粋)」というものです。そのため、町名をとって「下諏訪諏訪神社」としていましたが、「尚徳諏訪神社」に改めました。

 金井典美著『諏訪信仰史』〔諏訪御本地縁起の写本と系統〕から、一部を転載しました。

…やや北によった下京区の下諏訪町に坂上田村麻呂建立と伝える諏訪神社がある。この伝承が事実か否かは不明であるが、この神社が下社の系統であることははっきりしており、祭神は諏訪明神といいながら、タケミナカタとは別神としている。そして、同じく下京区諏訪開町の諏訪神社を上社として、対になっている…

尚徳諏訪神社参拝 '08.11.19

 西本願寺の近くにある「諏訪開諏訪神社」から取って返し、東本願寺を右に見て、今度は下諏訪町にある尚徳諏訪神社へ向かいます。

尚徳諏訪神社 こちらはすぐにわかりました。通りに面して鳥居があったからです。奥まで見通せるので、第一印象は「こざっぱりして、よく手入れがされている」でした。
 寄進者名が入った提灯が左右に吊られているのを見ながら参道を進みます。左手の社務所には冒頭の新聞記事が何枚か貼り付けてありました。

尚徳諏訪神社「手水鉢」 「奉納」とある手水鉢に、「信州諏訪郡上諏訪町」と10名の「寄進者名」が彫られています。明治三年と新しいのですが、なぜ地元京都ではなく本社のある長野県諏訪市からの寄進なのでしょう。京都の石工に作らせたのは間違いありませんが、その繋がりがわかりません。

 社殿の手前にシュロが二本あり、緑の団扇を寒空に広げています。「京都は寒い」とよく言われますが、長野県の諏訪と比べればはるかに暖かいのでしょう。

尚徳諏訪神社「拝門」 直線仕様の参道と境内は見通しが利くので、あえて「突き当たりが拝門と慶応二年再建の本殿」と紹介しなくてもよさそうですが、諏訪神社の中枢なので「あえて」書いてみました。
 右脇の灯籠前に灯明台があり、ロウソク2本の炎が揺れています。私と違い、「諏訪神社」として参拝に来る人は皆無でしょうから、町内の人でしょうか。

京都尚徳諏訪神社「本殿」 本殿の写真を撮ってから、備え付けの箱にある「諏訪神社御由緒と御祭神」とある由緒書きを手にしました。
 そのトップに、神紋の「明神梶」が印刷してあります。提灯や本殿大棟の神紋も「明神梶」ですから、この諏訪神社が「諏訪大社下社に対応している」という話は間違いないでしょう。

尚徳諏訪神社「大焚祭」 この由緒書きに、「年中祭事」として11月17日「大焚祭」があります。
 実は、参道脇に焦げた丸太が井桁に組んであるのを見て、最近「神事のようなもの」が行われたと想像していました。それが、何を焚き上げたのかはわかりませんが、その跡が「焦げた丸太」とわかりました。

諏訪神社御由緒

 住所が「諏訪町通五条下ル」と書いてある、諏訪神社の『御由緒』を転載しました。

 第五十代桓武天皇の延暦十六年(797)坂上田村麻呂、東夷平定、征夷大将軍の命を受けました。将軍はかねてより信州諏訪大明神を深く信仰し、御神威、御加護のもと赫々(かくかく)の戦果を挙げ、平安京に延暦二十年十月に凱旋いたしました。
 その御礼の為、都、五条坊門の南に社殿を造営、信濃より諏訪大明神のご分霊を勧請し祀られたのが当神社の創始です。

 ここまでは「どうかなー」という内容なので、区切ってみました。

 爾来(じらい)星霜を重ね社殿も荒廃いたしておりましたが、第八十二代後鳥羽天皇の文治二年(1186)、源義経社殿を広め、樹木を植え池を造る等して、昔にまさる宏大な神域といたしました。
 第九十六代後醍醐天皇の建武年間兵火に遭い、旧観とみに変じ再び衰微するも室町幕府(室町通今出川上ル付近)三代将軍足利義満神馬を奉納し神域を復活せしもようです。
 第百八代後水尾天皇の慶長年間にも社殿の修復が行われ、更に徳川幕府五代将軍綱吉の頃には、境内に社殿復興のための大相撲興行も行われました。第百二十代仁孝天皇の元治甲子(きのえね)の年(1864)、禁門の変の兵火に遭い、社殿、悉(ことごと)く烏有(うゆう)に帰し再建も覚束(おぼつか)なかったが、第百二十一代孝明天皇再建の資として金百五十両と菊御紋提灯壱(一)対を御下賜下さるに及び大いに力を得、更に尚徳学区先人各位のご努力と相俟(あいま)って慶応二年再建の業、完成いたしました。 (以下略)

「諏訪の社(やしろ)

 正徳元年(1711)刊行『山州名跡志 巻之二十二』から〔諏訪社〕です。

両替町通揚梅辻子(ようばいづし)南在り、社東向祭所健南方命一座又健御名方神とも称す同信州諏訪、伝に云、古当社封内広し、近隣人家の裏に池あり今尚諏訪池云、是又大境にして魚鳥羣栖(群棲)せしと云、

地図で確認すると、両替町通と揚梅通が交差(辻)する地点の南に(確かに)諏訪神社がありました。

 宝暦12(1762)年刊『京町鑑』には「下諏訪町」があります。

此町西側に諏訪のやしろあり

 安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』から、〔諏訪の社〕を転載しました。

諏訪の社(やしろ)五条の南二町諏訪ノ町にあり、祭所信濃国諏訪の社と同神なり 獣肉を喰ふもの此社の神箸をうけて食す、汚穢なしとぞ、

「二町」は約220mですから、「五条の南二町」は尚徳諏訪神社に相当します。京都には他にも諏訪神社があるので、一応確認してみました。
 ここに出る「神箸」は「鹿食箸(かじきはし)」のことで、現在も諏訪大社上社で購入できます。最近はジビエの代表格として出回り始めた鹿肉ですが、それに挑戦する前に「お守り」として手に入れておいた方がいいかもしれません。ただし、“大あたり”しても、これは「神社グッズ」なので諏訪大社にクレームを付けてはいけません。

移転した(?)尚徳諏訪神社 '21.1.10

京大絵図 貞享3年(1686)刊『京大絵図』があります。ここに寸ハ大明神(諏訪大明神)が確認できたので、その部分を転載しました。
 ところが、現在の地図で「醍醐町」と「上諏訪町」の関係を見ると、「下諏訪町にある尚徳諏訪神社」との位置関係が合いません。
 そうなると、諏訪神社が上諏訪町から下諏訪町に移転して現在の尚徳諏訪神社になったのか、または別の諏訪神社が存在したことにになります。

洛中洛外町々小名大成京細見絵図 もうすぐ明治維新という元治元年(1864)刊『洛中洛外町々小名大成京細見絵図』では、通りが一つ下がった「下スワ」にスワ(諏訪神社)があります。
 ところが、視野を広げて左の「サカイ丁」に倣えば、「下スワ」は(中ノスワ丁を含めた)二つの町組「下スワノ丁」であることに気が付きます。
 この新たな展開に目を見開けば、絵図上では「下スワノ丁」に神社が移転したことになります。一体、どうなっているのでしょう。

尚徳諏訪神社の地図 そこで、「現在はどうなの」とGoogleマップを開けば、今度は上諏訪町下諏訪町の間に横諏訪町鍵屋町があり、町割が細分化されています。これで、京都人でない私は途方に暮れることになりました。
 それとは別に、下諏訪町の上縁(北側)が、段差状になっていることに疑問を持ちました。「京都は碁盤目」のイメージが崩れたからです。
 


 地図を拡大して衛星写真に切り替えると、尚徳諏訪神社が関わっているように見えます。そこで、社地を白線で囲い、町割ブロックの中心を両側丁の四隅として区分けしたものを表示させてみました。
 その結果、町境は現在の家並み(敷地)を境としたものですから、町内に属する尚徳諏訪神社の社地が鍵屋町に食い込んでいることがわかります。「諏訪神社は下諏訪町のもの」として町割の改正を行ったために、このような不規則な境となったと考えるしかありません。

尚徳諏訪神社の地図 このように、「あくまで古地図と現在の地図による推察」としてですが、諏訪神社は「中諏訪町」の時代を経て上諏訪町から下諏訪町に移転したと考えることができます。その目で見ると、横諏訪町と鍵屋町の間にある路地が諏訪社の跡と思えてきます。


 長野県から京都の尚徳諏訪神社の歴史に口を出したことになりますが、私としては一つの答となりました。